暮らしのパレット




●「コラボレーション」(2012.1.29掲載)
美しい文字の包装紙

  義父が86歳になった。義母が亡くなってから十数年、一人暮らしの義父は毎週末、札幌にいる家族全員を夕食に「招待」してくれる。店はいろいろだが、週に一度の外食は義父にも私たちにも貴重な時間になっている。
 毎回、暦や行事に合わせた義父の挨拶で食事会はスタートし、それぞれの近況を報告し合う。私たち夫婦は共に兄弟がいないので、家族総勢といっても少人数だが、毎週のこととなると散財である。だが、好きなゴルフも書道もやめた今は、家族をもてなすことが義父の大きな楽しみになっているようだ。
 東京は神田の鶏卵問屋に生まれた義父は、戦後の焼け野原を見て人生の方向を変えた。大手企業に勤め、転勤で来た北海道が気に入って永住を決めた。お酒がすすむといつも、懐かしい神田の街や、まだ卵が貴重だったころの鶏卵問屋の話になる。聞いているうちに「かねあ」という屋号の荒井商店を再建したくなった。
 その夢は若い仕事仲間の知恵を借りて昨年ホームページ上で実現した。義父に書いてもらったさまざまな字体の「かねあ荒井商店」という文字を包装紙にレイアウトしたところ、私が選ぶ商品より包装紙のほうが好評。これからは季節に合わせた字句を書いてもらって、より素敵な包装方法を考えようと思っている。
 義父は毎朝午前5時に起床。食材も買いに出て普段は三食しっかり自炊している。子供に頼らない自立生活は実に見事である。そんな義父と不肖の嫁のコラボレーションが期せずして実現した。なんとも幸せなことである。 (生活デザイナー)

 

●「つらつら椿」(2012.1.22掲載)
わが家流お茶会の
椿一輪

 毎年この時期、椿のことを書いているような気がする。それほど私は椿が好きだ。花びらがハラハラと散るのではなく、満開の花がぽとりと落ちるのを嫌う向きもある。だがそれは、構造上の理由からであって、断じて縁起とは関係ない。椿油を採る立派な実をつける花が嫌われる理由などない。
 一花一葉とか一花三葉など、花と葉の美しいバランスはいくつかあるが、実際の椿は、写真のように凛と一輪、コサージュのように咲くわけではない。そもそも椿の葉は、あきれるほど密集している。その葉のすき間を縫って重量感のある花が咲く。葉がじゃまをして上手に咲けないこともあるので椿の枝を買ったら、まず蕾のまわりの葉を整理する。
 だが葉の真裏についている蕾は無傷で咲く。「厚葉木(あつばき)」や「艶葉木(つやばき)」が語源だといわれる丈夫な葉は、ぶつかり合って蕾を落とすこともあるが、その一方で、寒い季節に咲く花を重なり合ってしっかり守っているのかもしれない。
 そう思えばますます椿が好きになる。赤い椿の花言葉が「控えめな愛」「気取らない美しさ」であることもまた多くの人が心惹(ひ)かれる所以だろう。万葉集には「巨勢(こせ)山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」、「河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は」など美しい歌がある。「つらつら」とは「列なる」とか「つくづく」という意味合いである。椿にぴったりの、なんとも美しい音表現である。(生活デザイナー)

 

●「女正月」(2012.1.15掲載)
七草粥の美しい材料

 元日を中心にした正月行事を大正月という。実際は大みそかから始まるところが多い。「お年取り」とか「年取りの晩」として大晦日に特別なごちそうやおせち料理を食べて祝う地域がある。大正月は祖先の霊を祭ったり年の初めの仰々しい行事が続く。それに対して1月15日は小正月。こちらは豊作祈願や家族中心の楽しい行事が目立つ。あずき粥占いもこの時期に行われる。あずき粥を炊いた鍋に何本か竹筒を入れて、その中に入る米粒や小豆の量で植える作物の種類や作付けの時期、豊作かどうかを占う。小豆は邪気を払う赤い色が好まれ、さまざまな祭事に使われるが、小正月でも重要な役割を果たしている。豆占いや、邪気悪霊払いなど、興味深い行事が各地で行われる。
 小正月は別名「女正月」ともいう。年末から忙しく働いて来た女性たちが一休みする日である。家事一切から解放され、昔はお里帰りを許される日でもあったようだ。「女の酒盛り」といって前夜から女性だけの宴会を繰り広げる地域もあり、なんとも愉快な風習である。
 昨年、デパートの総菜売り場でちらほら「女正月」という文字を見た。突然提案されてあっというまに定着した恵方巻きにあやかって、また新しい販促の企画かと眺めていたが、恵方巻きと違って「女正月」の歴史は古い。イタリアには「女性の日」がきちんとある。大人の女性のための日こそ日本には必要だろう。写真は先週の七草粥の材料だが、暮らしの知恵に基づいた行事はしっかり残していきたい。(生活デザイナー)

 

●「夢」(2012.1.8掲載)
お茶の時間を大切に

 「今年はどんな年にしたいか」「夢はあるか」とあちこちで聞かれる。昨年、仲間と始めたべこもちの研究に本腰を入れ、じっくり道内と東北を調査したいというのが実現可能な夢だ。だが、今年こそ日々丁寧に暮らしたいと思う。この一見小さい目標のほうが、仕事よりはるかに難しい。
 「あたりまえの日常」のもろさを昨年私たちは図らずも知った。食事のあとの一杯のお茶、温かいシャワー、「元気?」という一本の電話など、今はそれらがすべてありがたい。春になればまた去年と同じように咲く花も、今まで以上の感慨をもって眺めるはずだ。多くの犠牲を払って学んだ幸せである。
 夢といえば、テレビで1972年、85年、91年、そして今年のお正月風景のVTRを観た。72年のVTRで、夢を聞かれた大学生は、専攻している社会学を辞めて文学を学び直したいと語った。就職や将来の不安など微塵も感じさせない純粋さがまぶしかった。そして現代の学生は就職さえできればよい、安定した生活がしたいと、こちらも本音を素直に語っていた。
 80年代以降、お正月の海外旅行も増え、豊かになったはずだが、一方で受験戦争と就職難は激化し、いつの間にか若者は夢を描けなくなったらしい。三島由紀夫にあこがれて文学を志すと語ったVTRの「青年」は今どうしているのだろうか。敗れてもいい。若い人には少々無謀な夢を持ってほしい。描かない夢は叶わない。若い時はデッカイ夢を大声で語るべきなのだ。心からそう思う。(生活デザイナー)

 

●「年の瀬に思う」(2011.12.25掲載)
縁起のよい箸置き

 13年前、広島県から函館に転居した年のクリスマスも大雪だった。わが家に来たサンタクロースは玄関脇の松の木の下にプレゼントを届けてしまったため、娘たちが見つけるまでの騒ぎは大変なものだった。今となっては懐かしい思い出である。改行 さて、クリスマスの夜から、町中が一斉にお正月の装飾になる。私もささやかな正月の「しつらい」をし、お正月用の料理も作り始める。だが特に正月用の料理でなくても、器や小物でいかようにも“はれ”の演出はできる。
 写真の「福」の一文字は箸置きである。節分用に求めたものだが、おめでたい食卓ではいつも大活躍。こんな小さい箸置きがあるだけでその場が一気に華やかになるから不思議である。
 食卓に置く装飾用の小物をフィギュアというが、日本の箸置きは立派なフィギュアである。縁起のよい文字を菓子や食器に印字する文化は、中国から伝わった。特に福と吉の二文字は和食器によく似合う。
 ところで、この箸置きを日常的に使う家庭は意外と少ないような気がする。職業柄、わが家にはたくさんの箸置きがあるが、慌ただしく食事の準備をしてバタバタ食べる日々に、かなしいかな箸置きなど無縁である。
 何を、どう、だれとどこで食べるにせよ、その時間と空間を大切にしたいとつくづく思う年末である。そして来る年こそ、政治も経済も少しは落ち着いて、被災地に明るい日差しがもどってほしいと祈るばかりである。(生活デザイナー)

 

●「今年の一文字」(2011.12.18掲載)
あたたかな毛糸のリース

 毎年12月になれば、今年を象徴する漢字一文字が話題になる。私もコメンテーターをしている番組で、私にとっての一文字は何かと聞かれた。「絆」と言いたかったが、少々照れくさくて、もうひとつ浮かんだ「思」という文字を書かせていただいた。
 あの地震は国立大学の後期試験の前日だった。受験生の次女を送り出す直前の大揺れだった。私は札幌にいた。函館にいる夫はもちろん、市内の長女や義父への電話もつながらなくなった。東北の友人や東京の仲間たちをどんなに案じても、成すすべはまったくなかった。大切な人たちの存在の重さを深く思う日々だった。
 なにもかも失った人たちが、がれきの中から見つけたアルバムや写真に涙する場面を幾度かテレビで観た。家族の思い出の写真を失わなかった喜びがひしと伝わり、切なくて悲しくテレビを観ながら私もいっしょに泣いた。デジカメで撮り放題の時代になり、修正も消去も意のままになったが、一回のシャッターが貴重だったフィルム時代の写真は、何にも代え難い宝だったのだ。震災を機に、あらためて家族や友人、そして自分が今在るしあわせを思った人がどれほどいただろうか。
 未曽有の震災で図らずもみな、誰かを思いやる気持ちを取り戻せたのかもしれない。クリスマスどころではない年の瀬だが、私の教室では写真のような小さい毛糸のリースを作った。せめて来る年が、少しでもぬくもりの多い年であるように祈るばかりである。(生活デザイナー)

 

●「クリスマス」(2011.12.11掲載)
子どもたちが幼い時に作ったクリスマス飾り

 今年も函館港の大きなツリーに明かりがともった。娘たちが小さいころ、点灯の瞬間を見せたくて震えながら待った記憶がある。あれから何年経っただろうか。函館で小学校と高校を終えた彼女たちも、それぞれの道を歩き始めた。
 私は小学校入学まで深堀町の小さい家で育った。毎年この季節、わが家の狭い茶の間にはふさわしくない大きな松の木が届いた。建設業をしていた親せきが届けてくれていたのだと思う。今ならツリーに飾るオーナメントは簡単に手に入る。だが昭和30年代の前半はまだ一般家庭で天井まで届くツリーを飾る習慣は浸透していなかったと思う。
 さて、わが家はその木に何を飾ったかといえば少々情けない。まだ若かった父が、大門のクラブやバーのツリーから無理を言っていただいてきた飾りばかりだった。紙製の雪だるまやステッキ、銀紙の星やモールの人形など、ふぞろいで大きなものが多かったが、幼い私にはとても自慢だった。
 その後引っ越しを重ねるたびに、母はオーナメント入りの箱をひな人形以上に大切に扱ってきたが、最後の引っ越しの時とうとう紛失したという。あまりに古い箱なので捨てられたのだと思う。
 今あっても飾れないと思いつつ、毎年残念に思う。酔っぱらった父が「おみやげだぞ!」とうれしそうにコートのポケットから出した長いひもの付いた雪だるまが懐かしい。サンタクロースがいるのなら、何とかあのオーナメントが入った古い大きな箱を探してほしい。(生活デザイナー)

 

●「食卓の森」(2011.12.4掲載)
クリスマスを思わせる食卓の緑

 月に一度、庭木や枯れ葉を札幌市が収集してくれる。今朝も私はゴミステーションからオンコ(イチイ)の枝を拾ってご近所の方々に笑われた。前回の収集日には別のお宅が剪定(せんてい)したヒバの枝をひと抱え拾ってきた。捨てたその場で頂きたいと言う方が聞こえがよいだろうか。わが家にもやせたオンコと貧弱なヒバはあるが、土地が狭いので一向に大きくならず、伸びた枝をクリスマスのデザインに使うという夢は未だ果たされていない。
 その代わりに、ご近所が捨てた針葉樹が毎年リースなどの玄関飾りに変身する。こんな枝振りの悪いモノでいいのかとよく聞かれるが、どんなものでも私は木の幹と枝、そしてさまざまな緑の葉モノが好きなのだ。花をデザインする時も必ず先に季節の樹木と緑を決める。三種類以上使えば作品に深みがでる。
 写真は先日の教室風景だが、赤い平な器に市販のクジャクヒバとヒムロスギを無造作にのせると、簡単なランチ風景が一気に華やかになった。木々には不思議な力があるといつも思う。
 手折られて食卓に飾られたとたん、もうそれなくしてその空間はありえなくなるからだ。生態学的にも植物あっての動物なのだと改めて気づかされる。その森を私たちは失いつつある。パソコンも携帯電話も自動車もなにもかも進化し続けるが、森と引き換えに得たものは、本当に必要だったのかと考えさせられる年の背である。(生活デザイナー)

 

●「原点」(2011.11.20掲載)
懐かしい喫茶店

 小学校一年の秋、函館から旭川に引っ越しして、高校卒業まで過ごした。通学路が繁華街だったため、お小遣いを貯めては友達と甘味処や喫茶店に寄り道して若い日々を謳歌(おうか)した。まだコーヒーの味も分からなかったのに、私たちは「ちろる」という店が好きだった。文学や美術を愛する人たちが集う店で、重い木の扉を開けると、文化的な大人の空気が漂っていた。
 その後も旭川に行けば必ず「ちろる」で古い友達に会った。店の奥には中庭に出るガラスのドアがあり、樹木が見せる季節の移ろいも美しかった。先日その店を2年ぶりに訪ねた。外壁のアイビーも重い扉もそのままだったが、一歩中に入ったとたん言葉をなくした。いすが違う。厨房が違う。額縁が違う。カウンターの端に座ったものの、中庭に開くドアを見るまでは、なんとも不安だった。
 コーヒーを運んできた女性にオーナーが変わったことを聞いた。背伸びをして通っていたころから40年以上たったのだから当然である。その時私は、この店を手放した元主人を知らないことに気がついた。多くの文化人を育てたというその人に会ってみたかった。
 せっかく大人になったのに、今なら文学論でも美術論でも、なんとか話題についていけるかもしれないのに。会ったことのない人に失恋したような不思議な気持ちになった。壁の時計は昔のままだったが針は動いていなかった。あのころ、私は何を夢みていたのだろうか。どんな大人になりたいと語っていたのだろうか。今からでもなにか間に合うことがあるだろうか。現実の時計は実に早く回っている。(生活デザイナー)

 

●「ふるさとの歴史」(2011.11.13掲載)
和洋古今取り混ぜた
心地よい友人の家

 「北海道では、『ほうじ茶』のことを『番茶』と呼ぶ」。先日、このことをテレビ番組で取り上げていた。北海道では茶色い日本茶を番茶、緑色のお茶を煎茶、玉露、総じて緑茶と呼ぶ。だがこの「間違い」、何か問題だろうか?
 それぞれの土地に、暮らしの中で慣れ親しんだ呼び名や理解があって当然である。方言もその一つだし、住む人たちに混乱がなければ問題はないだろう。函館の前は広島県に8年住み、今も定期的に関西に通っているが、各地の文化の違いにはいつも驚かされる。どこも「お互いさま」である。
 さて、このコラムの読者のみなさんにお聞きしたいことがある。内祝いや快気祝いについてくる短冊をどうしていますか?包装紙といっしょに捨てますか?がびょうで壁や柱に貼るお宅はありませんか?
 最近、出産内祝いの短冊を手にしたとき、無意識にマグネットで冷蔵庫に貼って苦笑した。思えば昔は、どこのお宅の茶の間にも、すでに茶色く変色した内祝いの短冊が何枚も重ねて貼られていなかっただろうか。
 あれは北国だけの風習だと思う。厳しい自然と対峙する暮らしでは、折りにふれての贈答は人間関係を確認する上で重要だったに違いない。紅白の短冊はその証しとして大きな意味を持っていたのだろう。親しい人の名前が書かれた短冊をどうしても捨てられなかった人たちの気持ちがよく分かる。
 ふるさとに歴史あり。こっけいな勘違いもあろうが、やさしさも満載の歴史である。(生活デザイナー)

 

●「食を守る」(2011.11.6掲載)
江戸時代の料理の再現した弁当

 非常勤講師として教えている東京の大学で、江戸時代の風物を振り返る展覧会があった。その一環として、当時の料理本から抜粋した献立を再現する試みもあり、代表的な料理を盛り合わせた弁当をごちそうになった。
 なかでも、鶏のひき肉と小麦粉、卵白を練り、春夏は枝豆、秋冬は大豆を加えて丸め、だし汁で煮た「とりまんじゅう」と、ごま油で揚げたこんにゃくを熱いうちに唐辛子と醤油、煎り酒に漬け込んだ「こんにゃくの煎りだし」は、すぐにでも作りたいメニューだった。5ミリ角のさいの目に切った豆腐を寒天で寄せた「こおり豆腐」は、氷が貴重だった江戸時代に涼しさを演出する料理で、さわやかな味だったし、練り梅、白みそ、ウニ、青菜、黒ごまの餡を塗った一口サイズの五色田楽も、日本人ならではの美意識に基づいた美しい料理だった。
 どれも美味しいだけでなく、調理の背景には江戸の庶民の知恵があふれていた。必要なものを必要なだけ買い、正しい火加減でエネルギーの無駄を省き、荒い方も捨て方も工夫していた。今回の料理の再現はエドならぬエコクッキングを提唱する企画でもあったようだ。上下水道も冷蔵庫もない不便な時代のはずなのに、生き生きとした当時の人々の暮らしが想像できて、うらやましくさえ思えた。
 「豊かな暮らし」は便利さとは無関係なのかもしれない。TPPだ、電力だと、食をめぐる環境はどんどん人々の手元から遠ざかる。「食を我が手で…」というそれだけのことが、一番難しくなってしまった。なぜだろう。残念である。(生活デザイナー)

 

●「函館再発見」(2011.10.30掲載)
道南のべこ餅とその仲間

 今、大学の若い仲間といっしょに「餅菓子文化の伝承—北海道におけるべこ餅の歴史と地域性—」という論文を書いている。青森県の一部と北海道にのみ広く分布するべこ餅は、その形も色も実にさまざまで、興味を持たずにはいられない。全道各地のべこ餅を集めることになり、函館は私の担当になった。
 先週の大雨の土曜日、意を決して調査を実施した。北斗市で開催された道南の特産品展会場も合わせて、結局十数店を訪ね、写真のように、べこ餅とくじら餅、「すあま」やあん入りのものなど、たくさん集めることができた。函館は北海道の餅菓子文化の宝庫だと確信した。
 市内では型を用いず、葉の形にまとめて丁寧に葉脈をつけるタイプが主流のようだった。型で抜く上ノ国の「かたこもち」とは同じ材料でも一線を画す何かがあるのかもしれない。そして、函館のべこ餅は黒砂糖一色の餅が多く、黒白入り混じったべこ餅は道央圏に多いような気がしてきた。多くの職人さんにお話をお聞きしているうちに、函館は仏事、神事を大切にし、生活習慣の伝承が生きている街なのだということがよくわかった。
 まだまだ計り知れない魅力がありそうで、帰りのJRでは疲れも忘れて取材結果を興奮しながら整理した。買い求めた餅菓子の重さですっかり腰を痛め、3日間の安静というオマケもついたが、餅菓子研究は今始まったばかりである。(生活デザイナー)

 

●「痛い耳」(2011.10.16掲載)
北海道らしい風景

 東京から仕事仲間が来道し、三日間ドライブ旅行に同行した。私自身、知らない所が多く、新鮮な旅になった。だがあちこちで観光客の北海道批評を直接聞くことにもなり、耳の痛い場面も少なくなかった。
 列挙すれば、@売り子さんに笑顔がなく愛想が悪い。A売ってやっているという横柄な態度に驚いた。B試食が少なく(関西、四国、九州に比べて)商品説明が不親切。C手作りや新鮮さを強調すれば、まずくても高くてもいいのか。D北海道と無関係の土産物店や美術館風のものが目立つ。E北海道産だと言われて買ったら輸入素材を使った食品だった。Fラベルなどのデザインが吟味されていない。G商品開発や販売方法をもっと学ぶべき…などなど、すべて道央圏の観光地で聞こえてきたことだが、耳の痛みは相当なものだった。
 もちろん「美しい自然」とか「海の幸が美味しい」という賛辞のほうがはるかに多い。だがそれは天然自然が褒められているわけで、人間の努力とは無関係である。問題は観光客を迎える人間の側にある。観光地としての北海道は刻々と変わりつつあるが、まだまだ課題は多いのかもしれない。素朴さだとか、個性だとか、土地ならではのあたたかさだと言えなくもないが、お客様に嫌な思いをさせてはいけない。
 久しぶりに晴れた午後、海沿いの町の洋酒工場を見学したとき、すれ違った関西からの団体が「やっと期待していた北海道らしい雰囲気だ」とうれしそうに話していたのが印象的だった。(生活デザイナー)

 

●続・「海苔弁哀歌」(2011.10.9掲載)
手づくり弁当もいろいろ

 前回も書いたが、今、海苔(のり)弁当について調査している。海藻類は古くから日本の祭り事には欠かせない食材の一つである。中でも海苔は現在、広く養殖され、贈答用、朝食用と並んで弁当の具材として不動の位置を占めている。その一方で海苔弁はいつの間にか、安くて手抜きの弁当の代名詞のようになってきた。これは由々しき問題である。
 中食産業の発展、女性の社会進出と弁当の関係、わが国の伝統的な食材の消費傾向など、どの点から考えても意味のある調査だ。そこで、会う人ごとに「海苔弁は好きですか?」「弁当の思い出は?」と聞いているのだが、どなたにも弁当にまつわる感動的なドラマがあって、インタビューしながら涙がこぼれて困ることもある。
 先日、ストーブの修理に来ていただいたSさんは、海苔弁と聞いてすぐ「貧乏自慢なら負けないよ」と笑った。大勢の子供を連れて満州から引き上げてきたご両親の苦労は計り知れない。少しの白米に麦を混ぜて炊いたお釜から白い部分を集めて弁当箱につめてもらったが、それでも色がついたご飯が恥ずかしかったと振り返る。そんな暮らしなのに、時々二段の海苔弁当を作ってもらったそうだ。雑貨屋だったので売れ残った海苔で末っ子の自分にだけ作ってくれたのかもしれないと遠くに目をやった。働き通しだっただろう当時の母親たちの親心を思って私は言葉を失くした。
 弁当を持っていけるだけでありがたかったのにと、Sさんは仕事の手を休めずぽつんと続けた。海苔弁に限らず、弁当の聞き取り調査は今後も丁寧に続けていこうと私は決心した。(生活デザイナー)

 

●海苔弁哀歌(2011.10.3掲載)
揚げ物が豪華な現代の海苔弁当

 べこ餅の調査と並行して弁当文化の研究も続行し、今は海苔(のり)弁に焦点を当てて若い仲間と論文を書いている。弁当を買う時代になって久しい。弁当専門店でもコンビ二でも種類が豊富で、ひんぱんにメニューも入れ替わる。そんな中、海苔弁は定番として愛され続けている。
 だが市販の海苔弁には必ずと言ってよいほど、白身魚のフライ、ちくわの天ぷらなどの揚げ物が添えてある。いや、ドンと海苔の上にのせてある。いつごろからだろうか。私は海苔弁の日がとてもうれしかった。ご飯の間にも一枚海苔がはさまっていて、おかずはいつも通りだから、それは豪華な弁当だった。だが周囲に聞けばその思い出は実にさまざまで、おかずの少ない日が海苔弁だったため、手抜き弁当だとか、わびしい弁当の代名詞だという人も大勢いて驚いた。
 市販の海苔弁が揚げ物を際立たせてのせるのは、海苔弁の「豪華さ不足」の印象を補うためなのだろうか。だが海苔弁イコール揚げ物という図式が定着するのはなんだかさびしい。さらに海苔弁にはもうひとつハードルがある。歯につくという理由で若い女性が敬遠する。
 わが家でも娘たちの弁当には作れなかった。おかかや佃煮といっしょに食べる海苔の美味しさは格別なのに残念な話である。さてみなさんは海苔弁が好きですか?どんな思い出がありますか?(生活デザイナー)

 

●「売り方いろいろ」(2011.9.25掲載)
ホテルで客を迎えるシーサー

 札幌の自宅の近くに、週に一度、新鮮な魚や野菜を積んだトラックが売りに来る。そのお兄さんと近所の奥さんたちとの会話、そして威勢のいい口調が実におもしろい。売り上手だなぁと毎回感心してつい買いすぎてしまう。
 売り方と言えば、先日旅した沖縄ではまた違った経験をした。トラックのお兄さんが「売り上手」だとすれば、こちらは「売り下手なおばあ」と言えそうだ。土産用に小さいシーサーを探していた時である。店主との話の流れで長女が沖縄に就職したと言うと、「それなら今買わないほうがいい」というのだ。何度か来るだろうから、多くの作家のいろんなシーサーをよく見て、本当に気に入ったものを買いなさいという。
 今欲しいというと、土産用の安物などむだだと笑った。彼女は美味しいお茶を入れてくれ、沖縄の興味深い生活習慣をたくさん聞かせてくれた。結局私は、お茶をいただいた壺屋焼きの茶碗を四個買った。今後何度もその店に彼女を訪ね、器を買い足し、いつかきっと納得のできるシーサーを買おうと思う。一見売り下手に見えるが、結局は客に何かを売り、また来ようと思わせる信頼感がそこにはあった。
 トラックのお兄さんの多弁な威勢のよさも、沖縄の店主の売り急がない姿勢も商品に対する誇りがあればこそだと思う。売り手の自信は使う言葉の良し悪しに関わらず必ず伝わる。その気持ちの余裕がリピーターを呼ぶのかもしれない。観光の原点に触れた思いだった。(生活デザイナー)

 

●「伝承の力」(2011.9.18掲載)
シーサーが迎える
沖縄のギャラリー

 べこ餅の調査がエスカレートして、とうとう生まれて初めて沖縄に行ってきた。餅や黒糖文化のルーツ探しが目的で、仕事先の関西から1泊2日の強行軍。今春沖縄に就職した長女に会う時間もままならぬスケジュールだったが、意義深い旅になった。到着早々、チェックインしたホテルで、予期せぬ取材がスタートした。
 伝統的なお菓子を売っている店に行きたい旨を若い女性従業員に伝えたところ、私が調べたいムーチー(餅とも鬼餅とも書く)なら、彼女自身が保育園児のお子さんといっしょに今年も作ったという。旧暦の12月8日はムーチーの日とされ、もち米の粉で作った餅を月桃の葉で包んで蒸す。子供の年の数だけ軒下につるし、健やかな成長を祈る風習である。
 ほとんどの幼稚園や保育園では毎年行い、幼い子のいる家庭では今も作るところが多いらしい。沖縄にはたくさんの「神様」がいて、独特な年中行事が多い事は知っていた。だが、さすがの沖縄も近代化して、家庭でのムーチー作りは少なくなり、おはぎやべこ餅のように「買う」行事食になりつつあるだろうと思っていた。ところが、地域や家庭の差こそあれ、沖縄の時間はゆっくり流れているようだった。
 古きよき文化を伝承し続けるには努力が必要である。ホテルで働きながら子育てをしている彼女に、ムーチー作りをはじめ、いろいろ行事をやり続ける理由を尋ねると、「やらないと気がすまないからだけでしょうね」とひとこと。その笑顔は実に自然で美しかった。(生活デザイナー)

 

●「伝統の町」(2011.9.11掲載)
新旧同居の懐かしい店先

 先日、岩内、泊、余市と車で回った。講演の前後に古い和菓子屋さんを訪ね、目下、研究中の「べこ餅」についていろいろとお聴きした。創業90年、100年という店も珍しくなく、大収穫の取材旅行となった。どの店も三代、四代と歴史を重ね、その間、洋菓子や時代に合った新しい菓子も作りながら、創業時の味をしっかり守っていた。町の産業も人の流れも刻々と変わる。
 家業を守り続けることは決して簡単ではない。ホンモノを作り続けている誇りと、それを支えるお客様がなければ、伝統の味は今日まで継承されてこなかっただろう。職人魂と地元の人々の絆(きずな)に出会った旅でもあった。
 和菓子屋さん巡りの途中、瀟洒(しょうしゃ)な店を見つけた。新旧の建築材料をさりげなく融合させ、古い町並みにとけ込んだ店構えだった。植栽の手入れをしていた奥様とお話ができた。馬具店としてスタートして、テントを商って50年、そして現在は息子さん夫婦を中心に、バッグなどざん新な帆布製品を展開しているとのこと。店先には心躍る商品が並んでいた。長く使ってきたミシンの隣がキキという黒猫の指定席。多くの観光客のブログに登場しているらしい。
 最近リフォームしたという店の奥には、手入れの行き届いたさまざまな古い道具がきれいに並んでいた。一瞬、京都にいるような懐かしい気持ちになった。人もモノも新旧混在できたときが一番素敵なのかもしれない。街づくりのヒントもきっとその辺にあるのだろう。(生活デザイナー)

 

●重陽の節句(2011.9.4掲載)
菊の節句の簡単ちらし寿司

 北海道は台風が少ないはずだった。それが今年も先週から豪雨が続いている。そのひどい雨が一瞬あがった午後、ふと見ると、いつも通る並木道のナナカマドの葉がうっすら色づいている。確実に秋になった。
 秋と言って連想するものはたくさんあるが、私は、生活美学を専門領域に加えてからは、まず「重陽の節句」が浮かぶようになった。別名「菊の節句」、9月9日である。江戸時代に定着した五節句の一つだが、9を「苦」に重ね、菊の花を葬儀の花にしたことなどから、いつのまにか重要視されなくなってしまった。
 9月は収穫の時期としても意味あるし、菊は効用のある縁起のよい花なのに残念な話である。不老長寿や無病息災を菊の花に託して祝う風習を、ぜひとも復活させたいと毎年思う。可愛い小菊を飾ってもいい。食用菊は酢の物やサラダだけでなく、混ぜご飯に散らしても飲み物に浮かべてもいい。人の手に負えない「自然」への畏れをひととき忘れるために、日本人は季節の節目ごとに「非日常」を演出してきたのだろう。それこそが節句の意義だったはずだ。再び巡って来た実りの秋に感謝し、家族の健康を祈りたい。
 わが家は去年、軽く塩揉みしたキュウリとしば漬け、白ごまだけの手抜きちらし寿司にイクラと黄色い食用菊を散らした。恵方巻きのような新しい食文化も悪くはないが、本当に歴史のある節句はなんとか残していきたいものである。(生活デザイナー)

 

●味に「ひと手間」(2011.8.29掲載)
食卓を彩る北国の味覚

 東京から久しぶりに友人が来た。ちょっぴり奮発してカニも買った。仕事仲間が集ってカニざんまいの宴が始まったとき、東京人の彼が「三杯酢!」と注文。「ポン酢、土佐酢、マヨネーズとしょう油でがまんして」と私が言えば、地元の友人は「カニはそのまま食べるのが一番!」と断言。だが彼は断固として「三杯酢」説を譲らない。
 客人のリクエストなので、私はカニをむく手を休めて適当な三杯酢を作ったところ、彼は大満足ではしを進めた。この彼の次なる注文は、みそがたっぷり入った甲羅に日本酒を入れて火であぶってほしいというものだった。「えーっ、面倒!そのまま食べて」と言うと、「そのほうが絶対においしいのに!」と再び妥協を許さない様子だった。
 そこで私は生まれて初めて蟹の甲羅で燗をつけた。おいしそうな香りが部屋中に広がった。「北海道の人は素材のよさに甘えているからなあ…」という彼の言葉が心に響いた。九州の明太子も、関西の塩昆布や鰊そばの鰊も、かつて日本海を通って運ばれた北海道の素材から生まれた。沖縄では野菜の代用品として昆布を調理し、さまざまな工夫をして消費を伸ばしたという。
 「そのまま」はもちろん美味しい。だが、ひと手間かけることで引き出せる別の深い味わいもきっとある。ちょっと手をかけた、北国の新しい味覚の誕生に期待したい。(生活デザイナー)

 

●「秋をまえに」(2011.8.21掲載)
雨あがりの庭

 縁あって、広島県から生まれ故郷の函館に転居して13年もたった。引っ越して間もなく、函館新聞の記者さんからお電話をいただいて、この連載が始まった。おかげさまで10年以上書かせていただいている。時々「ネタに困らないですか」と聞かれるが、幸い困ったことは一度もない。毎週金曜日を執筆にあて、その日の思いを書かせていただいているので、字数で苦労することはあっても内容で困ることは今のところない。
 ただ、当方の語彙(ごい)と表現力の不足のため、「以前も同じ書き方をしたかもしれない」と考えこむことはまれにある。朝夕急に涼しくなり、今年もまた「北国の秋は足早にやってくる」と書きたくなった。いったい何度この欄に、秋の訪れの早さを「足早」だの「突然」だのという言葉でつづってきただろう。
 それほど北国の秋は、ある日突然、未練なく夏を捨て、唐突にやって来る。もう来年まで30度を越える暑い日などないと思うと、「あんなに暑い暑いと嘆かなければよかった」と、ここでまた去年と同じことを思う。
 だが、この「同じ繰り返し」が何より幸せなのだと、今年やっと私はわかった。「いつもと同じ」でいられること以上に何か望むことがあるだろうか。寒い季節が忍び寄るのに被災地はそのままである。どうしたらよいというのだろうか。(生活デザイナー)

 

●玄関(2011.8.14掲載)
手入れの行き届いた玄関

 久しぶりに訪ねた飲食店の入り口で、思わず写真を撮った。塀との鉢物、苔のバランスが実に美しかったからだ。玄関は住居や店の顔だとよく言うが、その通りだと思う。味だけでなく、応対もいい店の入り口には、店主の修業の歴史や仕事に対する姿勢が必ず表われている。
 まだ長女が4歳のころ、二人で鼓と小太鼓を習いに通ったことがある。凛とした厳しい先生だった。幼い長女にはあいさつの仕方だけを、私には背筋を伸ばした座り方と楽器のもち方を毎回繰り返しご指導くださった。残念ながら転居のため継続できなかったが、あいさつや姿勢は楽器の演奏を学ぶ「入り口」だったのだと思う。
 教育現場に立って久しい今、あらためて何事においても「入り口」が大切なのだと痛感している。「入り口」を間違えれば、「出口」は全く違うものになる。だからこそ、玄関には、住人や店主の歴史や人生観「ひととなり」が表われてしまうのだろう。
 今年も函館短大の前期の試験が終わった。山のような答案用紙とノートが自宅に届いた。大学の先生は夏休みがあっていいですね、などとよく言われるが、毎年採点に追われて休みなど一日もない。家事もままならない多忙さだが、せめて玄関まわりだけは毎日きれいに整えようと思う。お盆を過ぎたら足早に秋がやってくる。(生活デザイナー)

 

●夏のお茶(2011.8.8掲載)
窓辺の琥珀色の冷茶

 函館土産にいつも探すお菓子がある。駄菓子に分類されそうな気軽なお菓子だが、なかなか手に入らない。通勤途中にお菓子屋さんへ行っても、いつもないので、ついに「何時ごろならありますか」と聞いてみた。すると「さあ、日によりますね」とのこと。毎週来る怪しい客とはいえ、そっけない返事だなあと、今回もうなだれて店を出た。
 だが、夕方の函館駅のホームで、私の気持ちはすっかり晴れた。買おうと思った駅弁も売り切れていたのだ。札幌で待つ母の好物なのでぜひ欲しかったが仕方がない。するとベテランの売り子さんが「本当に申しわけありません、ご期待に添えなくて」と吹き出る汗をぬぐいながら深々と頭を下げた。
 申しわけないのはこちらである。売り切れと聞いてきっと私は不満げな顔をしたのだろう。「ご期待に添えなくて」という彼の人柄が溢れる一言に救われて、気持ちよく帰途についた。帰宅した私はまず冷蔵庫を開けた。ビールではなく冷茶である。夜のうちに大さじ1強のアールグレイの葉に水を注いで窓辺に置く。午前中、時々かき混ぜながら葉をゆっくり開かせてから冷やす。太陽の光を浴びて茶葉を開かせた紅茶が一番おいしいと、以前友人から教えてもらった。
 アメリカで学んだという。窓辺で琥珀(こはく)色が次第に濃くなる様子を見るのも楽しい。緑茶も同様に冷茶にする。わが家ではこれを「ひだまりのお茶」と呼んでいる。(生活デザイナー)

 

●街の盛衰(2011.7.24掲載)
初夏の札幌大通り公園

 毎週一度、函館駅前から湯の川の終点まで、のんびり市電に揺られながら函館短大に向かう。観光客や修学旅行の学生たちと一緒になることも多く、キレイな街だと聞こえてくればうれしくなり、想像よりさみしいね、などと言われれば悲しくもなる。だが、どんな街も生きている。いつまでも同じであるはずはない。
 時折訪ねていたススキノの古本屋が店を閉めた。70年のご愛顧に感謝するという一枚の張り紙の前で、私はしばし動けなかった。夕べは、親子二代で通った文具店が閉店すると聞いた。欲しいものがなんでも見つかるワンダーランドのような文具店だった。45年の歴史があった。
 写真の左手に写っているビルは、今は通称大通りビッセと呼ばれているが、旧北海道拓殖銀行の跡地に建てられたものだ。築45年だったが、建て替えなければならないほど古かったわけではないだろう。この場合はどうしても「解体」する必要があったのかもしれない。
 長く若者の情報源として愛されてきた雑誌「ぴあ」も創刊35年目で休刊になった。充分にその役目を果たし終えたからとはいえ、さみしい限りである。
 人も街もライフスタイルも、時代とともに変わって当然である。だがクラシック音楽や美術の魅力のように、時を経ても変わらないモノもある。細々とでも伝承され続けるコトもある。それを文化と呼ぶのかもしれない。(生活デザイナー)

 

●紫陽花のおもいで(2011.7.18掲載)
造花の紫陽花でテレビスタジオを飾る

 もう10年以上この欄に書かせていただいているので、三好達治の「乳母車」という詩のことは何かのときに書いたかもしれない。だとしてもお許しいただきたい。紫陽花(アジサイ)の季節、私はこの詩を思い出さずにはいられない。「母よ、淡くかなしきもののふるなり 紫陽花いろのもののふるなり」という書き出しも、「母よ 私の乳母車を押せ 泣きぬれる夕陽にむかって りんりんと私の乳母車を押せ…」と続くフレーズも、若い日の私を虜(とりこ)にせずにはいなかった。紫陽花の花と乳母車は一体の映像となって私の記憶の中に焼きついてしまったのだ。
 弘前で過ごした学生時代、ときどき見かける美しい女性がいた。ある夏、彼女は白い日傘を差し、大きな乳母車を押して散歩をしていた。三好達治の詩と同じだと、私は立ち止まってその母子を見送った。そのうち、ご自宅の場所も分かった。趣きのある玄関には生け花教室の看板が掲げてあった。私はその門をたたき、強引に弟子にしていただいた。
 大学で教鞭もとる素敵な先生で、毎回、美術や音楽の話をしながら丁寧に指導してくださった。乳母車を押す先生に目を奪われなければ今の私はいない。三好の詩は「母よ 私はしっている。この道は遠く遠く果てしない道」で終わる。その言葉の意味と重さがこの年齢になって、やっと少し分かってきたような気がする。(生活デザイナー)

 

●道南の文化(2011.7.3掲載)
かわいい七夕飾り

 去年の今ごろ、函館短大に飾ってあった七夕飾りを見た私は、装飾を手伝っていたテレビ番組にどうしても飾りたくなり、短大のご近所の方に無理を言って長い竹を分けていただき、何本かに切ってJRで札幌に運んだ。二b以上の長さの竹の束をかついだ私はかなり怪しい乗客だったに違いない。今年も短大のキッズルームの入り口には、かわいい短冊がたくさん下がった竹が飾ってある。
 北海道は八月に七夕をする地域が多いが、函館は正統派である。七夕だけでなく、道南にはほかの地域にはない文化がいくつもある。お盆も違うし、正月料理にも特徴がありそうだ。以前もこの欄に書いたが、べこ餅も「元祖」は道南だろう。上ノ国にはカラフルな「かたこ餅」という行事菓子もある。七夕飾りを見ながら、あらためて「道南はおもしろい」と思う。
 北へ、東へ、新天地を求める前に、まずはこの道南の地に本州と異国の文化が根をおろしたに違いない。人々の移住の歴史を各地に残るお菓子でたどれば、新しい北海道の歩みが見えてきそうだ。
 ところで、諸説ある七夕の伝説や起源のうち、女子の針仕事や習字の上達を願う中国の行事に私は注目したい。ひな祭りのように、女子の祭りとして祝えたらどんなに素敵だろうか。七夕は江戸時代に定着した五節句のひとつである。大切にしていきたい。(生活デザイナー)

 

●道南の文化(2011.7.3掲載)
かわいい七夕飾り

 去年の今ごろ、函館短大に飾ってあった七夕飾りを見た私は、装飾を手伝っていたテレビ番組にどうしても飾りたくなり、短大のご近所の方に無理を言って長い竹を分けていただき、何本かに切ってJRで札幌に運んだ。二b以上の長さの竹の束をかついだ私はかなり怪しい乗客だったに違いない。今年も短大のキッズルームの入り口には、かわいい短冊がたくさん下がった竹が飾ってある。
 北海道は八月に七夕をする地域が多いが、函館は正統派である。七夕だけでなく、道南にはほかの地域にはない文化がいくつもある。お盆も違うし、正月料理にも特徴がありそうだ。以前もこの欄に書いたが、べこ餅も「元祖」は道南だろう。上ノ国にはカラフルな「かたこ餅」という行事菓子もある。七夕飾りを見ながら、あらためて「道南はおもしろい」と思う。
 北へ、東へ、新天地を求める前に、まずはこの道南の地に本州と異国の文化が根をおろしたに違いない。人々の移住の歴史を各地に残るお菓子でたどれば、新しい北海道の歩みが見えてきそうだ。
 ところで、諸説ある七夕の伝説や起源のうち、女子の針仕事や習字の上達を願う中国の行事に私は注目したい。ひな祭りのように、女子の祭りとして祝えたらどんなに素敵だろうか。七夕は江戸時代に定着した五節句のひとつである。大切にしていきたい。(生活デザイナー)

 

●質問に思う(2011.6.26掲載)
カフェを飾る観葉植物

 今日は思い切って書こうと思う。領収書に荒井と名前を書いてもらう時、3度に1度くらいため息がでる。「新しいという字に井戸の井ですか」と聞かれることが多いので、はじめから「荒川の荒です」と言う。だが、その「荒」を書けない人が少なくないのだ。草かんむりに亡を書くまではいい。その下が二本足になったり、三本川だったりする。ウソのようだが本当である。難しい名前でもないのに私に書いて欲しいという店員さんに今日も遭遇した。
 先日いろいろな大学で教えている仲間と雑談をした時のことである。ある教師が伊勢神宮の話に触れた際、学生からどこにあるのかと聞かれたという。伊勢にあると答えると、伊勢はどこにあるのかと別の学生に聞かれ、三重県だと言うと、三重県はどこだとさらに別の学生に聞かれて絶句したとう。
 この話を聞いていたベテランの教授が「最近は高校で地理を選択しない学生が多いですからね」と学生をかばったが、都道府県を覚えるのは小学校である。漢字も地理も苦手な私が言うのもなんだが、小中学校で学んだはずのことを知らなかったり、忘れてしまったことを全く恥じないこの風潮はどうしたことだろうか。
 「おバカ」タレントを持ち上げるテレビ番組も悪いかもしれない。人は忘れもするし、間違いもする。だがせめて基礎学力だけは維持したい。老婆心がズキズキ傷む昨今である。(生活デザイナー)

 

●花の文化(2011.6.20掲載)
ポーランドのお花屋さん

 パリのフラワーデザイナーのレッスンがテレビで放映されている。花の組み合わせはいつも新鮮で楽しみに見ているが、花束だけはまねできないと毎回思う。必要な花を迷わず束ね、アイビーなどのつるで縛ったり、ほかの植物の皮で足元を包む。そして出来上がった花束はすぐそのまま誰かに贈られる。切り口を湿らせ、ビニールで覆い、さらにセロハンでくるむ作業は省かれるのだ。
 花がしおれたとしても、それも「生きている」証拠ということか。長持ちさせることより、贈る瞬間のデザインのほうを重視するのだろう。日本の花の文化は世界に誇れる。だが花束となるとまだぎこちないところがあるのかもしれない。贈り主の名前を書いたカードが目立ちすぎたり、包装が仰々しすぎたり、なかなか難しい。だがそれは、贈答や装丁に関する歴史と文化の違いではないか。実に興味深い。
 花に対するイメージは世界各地、そして時代によってもさまざまである。いつのまにか仏事と結びつき、おめでたい席には敬遠されてきた菊や、わざわざ買う花としては評価されてこなかったダリアは、品種改良が進み、最近は結婚式でも人気がある。
 「のぼり藤」とも呼ばれるルピナスも日本では庭の隅に咲く安い花のイメージがまだあるが、昔イギリスで花の勉強をした時は一番人気のある花だった。北国にも花の季節が到来した。多いに楽しみたい。(生活デザイナー)

 

●食の力(2011.6.12掲載)
上手に空間を利用した家庭菜園

 北海道神宮のお祭りが近づき、今年も町内にのぼりが並んだ。昔はお祭りのときは、煮しめを作り、時鮭を焼き、お赤飯を食べたという。子供達はお小遣いを貰い、とても嬉しい日だったらしい。母は甘納豆入りの甘いお赤飯が本当においしかったという。めったに作らないお赤飯だからこそ、なおさらそう思ったのだろう。
 この甘納豆入りのお赤飯は北海道独特のものだと思われがちだが、そうではない。広島県に住んでいたころ、何かのお祝いのとき作り、近所の友人に持って行ったところ、長野県出身の彼女は大喜びした。長野のお赤飯も甘納豆入りだという。北海道には日本各地の食文化が集まっている。甘いお赤飯のルーツは長野周辺にあるのかもしれない。
 昨今はお赤飯もおはぎも年中買える。嬉しい反面、「ハレの日の食」の日常化は少々さみしい。特別な日に特別なモノを食べることは、生活にメリハリを生み、人々が集うきっかけにもなるからだ。
 この週末は久しぶりに狭い庭の手入れをしようと思う。庭造りが上手な友人が野菜やハーブの苗をくれるという。ネコのヒタイ程の土地だからたかが知れた収穫だろうが、この夏の食卓は少し豊かになりそうだ。陽が高くならないうちに「畑仕事」を終えて、おいしい朝ごはんを食べようと思う。(生活デザイナー)

 

●学ぶということ(2011.6.5掲載)
花と料理の教室風景

 第一志望の大学に入れなかったことが長く尾を引き、結局私は四十代半ばまでに3つの学部に合計14年ほど在籍した。その私は今また、いつかもう一度学生になろうともくろんでいる。いい加減にしろと家族は言うが、老いてこそ思う存分学びたい。
 老いてからの学習といえば、かつて家の外で飼っていた老犬が14歳になったとき、室内飼いにするために思い切ってしつけの学校に10日間預けた。周囲はむだだと言ったが、お手もお座りもできなかった彼は、聞き分けのよい立派な犬になって帰ってきた。その後足腰も弱わり、認知症の症状も出たが、19歳で大往生するまで家族にぴったり寄り添って生きてくれた。学ぶのに遅すぎることなどないと教えてくれた。
 先日、函館駅で観光客の立ち話が聞えた。北海道の接客が良くないという。これまでにも何度か聞いたことがある。話し方はなれなれしいのに愛想は悪く、客に対する態度が悪いというのだ。たしかに関西に比べれば商売の歴史は浅く、トレーニング不足は否めない。親しさと無礼も違うだろう。
 もう地域の特性、人柄の個性だと言ってはいられない。観光客は陰で笑っても注意などしてくれない。学べるものがあれば学びたい。物的サービスより人的サービスを見直す時期なのかもしれない。饒舌な観光客の輪に割って入りたい気分だった。(生活デザイナー)

 

●人の住む街(2011.5.30掲載)
普段の生活を楽しく

 函館短大の授業を終えると、いつも大急ぎで函館駅に向かう。その日のうちに札幌に戻らなければならないので、大慌てでタクシーに飛び乗るのがお決まりだった。ところが先日、列車を一つ遅らせて、短大前から市バスを利用してみてはどうかと同僚から言われ、ためしにバスに乗ってみた。タクシーで通る道を大きく外れ、予期せぬ遠回り。ほぼ50分かかった。
 だが、7年前まで子供たちといっしょに毎日通った道や、おいしかったお寿司屋さんやレストラン、ここには本屋さんがあった、あそこにはラーメン屋さんがあったと、私は観光客気分で車窓の風景を満喫した。楽しそうに立ち話をしているご婦人たちを何組も見かけた。ランドセルを背負って家路に走る子供たち、ゆったりと犬と散歩をする人も何人も見かけた。
 確かにシャッターを下ろした店が目立つ。海外からの観光客は激減した。だがこの街には、この街が好きでこの街に住む人が大勢いる。この街で生まれ、この街だからこそ安心して暮らしてきた人たちが大勢いるのだ。函館は道が広い。空が高い。緑が多い。
 住むことと食べる事に関しては最高のぜいたくが可能な街である。気が付けば夕暮れの美しい函館山と港が見えてきた。函館は観光の街だといわれて久しいが、住む人にも、かくも優しい街だったのだ。なによりではないだろうか。(生活デザイナー)

 

●やさしい食風景(2011.5.22掲載)
今風のお祝いの食卓

 週に一度、私には楽しみな時間がある。函館短大の講義のあと、大先輩である畑井朝子先生の研究室を訪ね、おいしい紅茶をごちそうになることだ。先生の食に関する豊富な知識や学問に対する真摯(しんし)な姿勢に触れると、いつも背中がシャンとする。先日もお茶をいただきながら、最近は道南の行事菓子について調査していると申し上げると、すぐに一冊の本を貸してくださった。
 「函館市史 銭亀沢編」である。食文化に関する箇所は畑井先生がお書きになっていた。昭和初期の食生活だけでなく、当時の人々のいきいきとした暮らしがドラマを見るように想像できた。塩辛、漬物、酢の物などが常に食卓に登場し、三平汁も頻繁に食べられていた。野菜類も塩漬けにしたり乾燥したりして大切に使われた。何かの行事があれば白玉だんごがごちそうだった。
 暑い夏は、アメた(腐った)ご飯を水で洗ってぬめりをとり、水をあまり切らずに食べていた。「水まんま」と呼ばれたそのご飯にはキュウリ漬けと塩引き鮭がよく合ったという。冠婚葬祭も地域で行い、餅をつき、お赤飯を作ってみんなで食べた。
 人々の暮らしの知恵と地縁の深いつながりが読み取れた。「ネギ味噌」も「だし餅」もなにもかもがおいしそうだ。バブルの時代を終え、大震災を経験した今、食の豊かさとは何かを、あらためて考え直す時なのかもしれない。(生活デザイナー)

 

●北のリゾート(2011.5.15掲載)
美しい桜の並木道

 ゴールデンウイークに、ご主人と函館までドライブをした友人は、美しい桜を謳歌(おうか)したと大満足だった。湯の川温泉もなんとか予約がとれ、おいしい料理と異国情緒も満喫したようだった。札幌からのドライブも楽だったので四季折々行こうと思うとのこと。わが子が褒められたようで、私はすっかりうれしくなった。
 初夏の緑も紅葉も雪のベイエリアもいつだって素敵よと、観光大使気分であちこちのお店や街並みを紹介した。海外からの観光客が激減したことは、今嘆いても仕方あるまい。地続きのお客様をたくさん招こうじゃないかと私は思った。函館は横浜にも神戸にも似ている。香港にだって似ている。道南は海産物のほか、お米も野菜も乳製品も極上である。北のコートダジュールとでも、サントロペとでも名乗ったが勝ちだろう。
 函館短大の授業を終えたら、今にも雨が降りそうな空だった。だが駅に向かう途中通った桜の並木道で、私は思わずタクシーを降りてシャッターを押した。乳白色の空に満開の桜の淡い色が優しくとけて、それはそれは美しかった。
 函館生まれなのだと私が言うと、同年代の運転手さんは急におしゃべりになった。今はない懐かしい店の名前をお互いに言い合って、大いに盛り上がった。街は生きている。老いもすれば新たに生まれるものもある。週末はハコダテへ、そんなキャンペーンをぜひ展開してほしい。
(生活デザイナー)

 

●土の力(2011.5.8掲載)
室内で楽しむパンジー

 母の日(8日)、私は野菜の苗を贈ろうと思う。3年前に腰の手術をしたが、母の足腰のしびれや痛みはそれほど軽減しなかった。行動範囲が狭まり、気の晴れない日も増えたようだ。だが暖かい日はがぜん、ファイトが沸くらしい。苗を買いに行き、痛いはずの腰も膝もまげて、せっせと植える。草もむしる。時間を忘れて庭にいる。園芸療法の効果は甚大である。
 植物の命を育てる土には、耕す私たちにも直接エネルギーをくれるようだ。実に不思議である。特別手をかけなくても茄子は実り、トマトもやがて小さい実をつけてくれるだろう。天候や害虫、病気を気にしながら成長を見守ることは、子育てにも似たワクワク感。捨てがたい魅力である。
 この時期、眺めて楽しい花にパンジーがある。母は毎年たくさん買ってきて、黄色や青、白、オレンジなど元気な色の組み合わせを考えながら玄関前のプランターに植える。私はその苗をしばらく室内で楽しんでいる。ほかの切花にはない力強い魅力がある。
 母の日、お花屋さんはどこも大忙しのようだ。世界各地に素敵な母の日があるが、日本は赤いカーネーションを贈る形で定着した。最近はカーネーションの種類が増え、いろいろ選べるようになったが、私は昔ながらの真っ赤なカーネーションを1本、野菜の苗に添えて贈ろうと思う。(生活デザイナー)

 

●節句(2011.5.1掲載)
古い兜を飾って

 5月5日は子どもの日。昭和23年に制定された祝日である。ひな祭りに対して、こちらは男の子のお祝いの日だと思っている人も多い。5月5日は江戸時代に定着した五節句の一つ、端午の節句である。月はじめの午(うま)の日を端午というのだが、五月が「午(うま)の月」であることもあって、特にこの日が端午の節句として定着したのだろう。
 江戸時代には鯉のぼりや兜(かぶと)、武者人形などを飾り、男の子の成長を祝うようになった。節句は本来、季節の節目、区切りのことを言う。かつては五節句以外にも各地に多くの節句があった。地域の仲間が集い、飲食を共にしてきたのだ。端午のこの時期は農作業も繁忙期に入り、雨期も近づく。無病息災や豊作を祈り、厄払いの意味でも人々は年中行事として節句を大切にしてきたのだろう。
 装飾にはアヤメ科の花菖蒲を生け、菖蒲湯には薬草でもあるサトイモ科のショウブを使う。草餅はよもぎの強い香りが邪気を払うとして好まれ、ちまきや笹餅は笹の殺菌効果が期待されて長く作られてきた。
 今年は端午の節句どころではない気もした。だが、こんな年だからこそと思い直して、いつもより早く兜を飾った。日本人の知恵と技術はすばらしい。幾度も苦難に打ち勝ってきた。復興を祈るばかりである。(生活デザイナー)

 

●北国の時間(2011.4.24掲載)
大切なお茶の時間

 東京と関西は新幹線でわずか3時間の距離。仕事で利用するたびに、なんとなく悔しくなる。かつての二大文化圏、「江戸」と「上方」は、今はとても近いのだ。結局、昔も今も、日本の政治と経済の拠点はこの二箇所なのかと、ついひがみたくもなる。
 北海道は新幹線の延長を待っている間に、多くの町の事情が変わった。取り残された感がどうしても否めない。だが先日、失ったものや、ついに持てなかったものを嘆いても仕方ないと思う瞬間があった。函館で短大の授業を終えて札幌行きのJRに飛び乗り、大沼を越えたあたりだったろうか、美しい夕日に遭遇したのだ。寒々とした森林の向こう側に、大きな太陽が例えようのない光を放って大地を照らしていた。
 沿線にはたくさんのミズバショウが低く凛と咲いていた。ふと「津軽時間」という言葉を思い出した。弘前で過ごした学生時代、何度となく聞いた言葉である。津軽の人たちの間をゆったり流れる時間のことをそう呼ぶ。最近、沖縄にものんびりとした「沖縄時間」という概念があることを知った。
 この数十年、日本は世界を相手にナンバーワンを目指して全力疾走してきた。その結果、日々の生活は確かに便利になり、あらゆる時間が短縮された。だが今、その原動力の限界が突きつけられている。津軽や沖縄に流れているゆるやかな時間は、少なくとも人を傷つけたりしない。車窓の夕日は本当に美しかった。(生活デザイナー)

●再び(2011.4.17掲載)
満開の京都の桜

 久しぶりに函館西部地区の坂道を歩いて、見慣れない建造物に思わず足が止まった。この一カ月、天災と人災が同時に起こるという歴史上類をみない大惨事に、誰もが耐えるしかなかった。多くの人が自分の無力さを嘆いたに違いない。私も教師として生命の尊さと自然のすばらしさを説いてきた。だがどんな命も、暴れ狂った自然の前にはなす術などなかった。
 言いようのない空しさと、これからの課題を前にため息をついていた時、古い友人から誘いがあり、懐かしい坂道を散策した。何も変わらない故郷の坂道のはずだったが、大切なものを失い、見知らぬモノが増えていた。街の景観を守ることは、かくも難しいことだったのかと改めて思わずにはいられなかった。
 日本の地形が変わるほどの大惨事、そしてこれほどまでに多くの命を失った今、「街の景観」を斟酌(しんしゃく)することなど無意味にも思える。「どうでもいい」気もしてくる。だが、待てよ…とも思うのだ。踏ん張れるなら踏ん張ろう。平常心も大切にしようではないか。海外からの観光客を失い、国内の客足も減った。だがいつの日か、再び函館は日本一の観光の街になる。必ずなる。
 その時まで踏ん張れるなら踏ん張ろう。函館の街の誇りと良識は忘れずにいよう。早く桜が咲けばいいのに…と、祈る思いで午後の授業に向かった。(生活デザイナー)

 

●食の未来(2011.4.10掲載)
普段の食事に感謝して

 函館短大の新学期が始まった。今年もフードコーディネート論といっしょに、食品の消費と流通に関する授業も担当する。本年度は教科書以外に新聞のコピーも使おうと思う。連日報道される食品の安全性、風評被害、流通の遅れなどは、どれも現実の大問題である。この時期在学する学生たちには、姿勢を正して直視し、解決の道を考えてほしいと思っている。
 初回の授業では、記憶に残るお弁当の絵を描き、おかずの材料の入手先を書き入れてもらったところ、ほとんどが「スーパー」だった。予想通りである。では、その「スーパー」に商品が並ばなくなったらどうするのか。
 東京のボトル入りの水は、報道が二転三転する中で、あっという間に買い占められた。製造ラインの事情で、震災後しばらくの間、わが家の近くのコンビニから、一部の乳酸飲料が姿を消した。水も食糧も、いつでも手に入るという安心神話はみごとに崩れた。
 放射能についてはあまりに無知ではなかったか。風評にはこんなに弱くていいのか。謙虚に反省すべきことも山積みである。頻繁に揺れる国からの報告が信頼できないとすれば、自分たちで学ぶしかない。
 食は命である。贅を尽くし、グルメという言葉に沸いた時代は完全に終わった。道南は食の宝庫である。この幸せに感謝しながら、食の未来をみんなで考えていきたいと思っている。(生活デザイナー)

 

●自転車(2011.4.3掲載)
思い出深い自転車

 仕事を終えて帰宅した時、家の前の古い自転車を見て胸が詰まった。長女は中学、高校の五年間、この自転車で函館の街を走り回った。その後、浪人時代と大学の六年間、多少の雨や雪なら気にも留めず、札幌中をまた走り回った。誕生日に買って欲しい自転車があると懇願されたような気がする。彼女が自転車を欲しいと言ったのは二度目だった。
 最初は3歳の時である。両親に娘を預けてパリに花と料理の勉強に行っていた時だった。当時は携帯電話もなく、電話をかけるのも大変だった。やっと娘と話ができた時、彼女は「もう自転車はいらないから早く帰ってきてちょうだい」と遠い電話の向こうで言った。お土産に自転車を頼まれ、うかつにも承諾していたらしい。
 自分の都合を優先させ、小さい娘にどんなに心細い思いをさせてきたか、私は異国で涙が溢れてならなかった。ちょっと値の張ったオレンジ色の自転車だったが、何度も壊れては修理を重ねて、貫禄のある姿になった。長女はこの春、沖縄の病院の研修医になり、大きなリュックサックを背負って旅立った。はじめは沖縄まで自転車で行きそうな勢いだったが、さすがにそれはあきらめて、浪人が決まった妹に託した。
 函館の高校の名前が書いてある古い自転車は今しばらく札幌を滑走するらしい。せめてもう少しきれいにしてやろうと思う。(生活デザイナー)

 

●おむすび(2011.3.20掲載)
おむすびを春らしく盛り付けて

 「自宅にこもって仕事をしている」とブログに書いたら、おむすびが届いた。まるでサンタクロースのプレゼントのように、玄関のドアにおむすび5個と高野豆腐の煮物が入った紙袋が下がっていたのだ。ご近所に住む古い生徒さんからだった。買い物も食事の支度もままならない私を察して、お気遣いくださったのだ。
 小ぶりのおむすびには昆布のつくだ煮が入っていた。4人のお子さんを立派に育て上げ、畳屋さんの奥さまとして、職人さんたちの良きおかみさんでもあった彼女の主婦としての歴史とやさしさが詰まった美味しいおむすびだった。
 今回のタイトルを「おむすび」と書いて気が付いた。私は普段、「今日はおにぎりでいい?」と娘に聞く。「おむすびにする?」とも言う。わが家は両方使っているが、それぞれの家で言い方は決まっているのだろうか。「おにぎり」の方が言葉としての歴史は古く、西日本で多いといわれているが、今は全国で同じように使っているようだ。
 気軽にご飯を「にぎって」まとめるか、ていねいに「むすぶ」かの違いかと考えたこともあるが、さてどうなのだろうか。わが家では刻んだ松前漬けを混ぜ込んだものと、ほぐした鮭と白ゴマを混ぜた2種類が定番である。鮭入りの方のご飯は赤ワインを少量加えて炊くとほんのりピンクになって春らしい。春はすぐそこである。(生活デザイナー)

 

●卒業(2011.3.6掲載)
吹雪のあとの青空

 次女が高校を卒業した。朝から猛吹雪だったのに、式を終えて外に出ると、抜けるような青空が広がっていた。幼いころからぜんそくで苦労し、低血圧と頭痛にも悩まされた。広島県から函館に転居したのは小学校入学時だった。広島弁はすぐに流ちょうな函館弁に変わり、多くのお友達を得たが、家族の都合で中学から札幌へ移動した。小学校は?と聞かれるたびに、「函館です」と答える次女はいつも誇らしげだった。
 卒業式で入場してきた次女のはつらつとした姿に胸がいっぱいになった。長女も今春大学を卒業する。私の子育ては一つの節目を迎えるような気がした。私は母として彼女たちに何ができたのだろうか。二人が3歳と10歳になる春、私は再び大学院生になった。子育てより自分育てを選んだのである。
 二人とも多忙な母の気まぐれや不機嫌によく耐えてくれた。物心共にたくさんの我慢もしてくれた。試験の時も家事を応分に負担してくれた。転校もつらかったに違いない。こんな私ができたのはお弁当作りぐらいだったのに、それさえ億劫(おっくう)だと思った日も多かった。だがそのお弁当作りがもうできないと思った途端、言い表せないさみしさにおそわれた。感傷的になっていたら、「予備校もお弁当かしら」と次女。今しばらくお弁当作りは続投できるのかもしれない。悲喜こもごもの春である。(生活デザイナー)

 

●伝承の味(2011.2.27掲載)
カフェのカウンターに飾った雛人形

 郷土料理とお菓子について調べなければならないことがあり、北海道から沖縄まで食に関する古い全集を一冊ずつ、ざっくりと読んでみた。時間はかかったが、47都道府県分読み終えた時、予期せぬ感動があった。
 食の風景写真は、今の料理雑誌に比べれば、決しておしゃれではないが、丁寧に暮らす人々の姿が見えて、実に魅力的だった。小さい地域ごとに個性があり、年中行事や冠婚葬祭で作る餅やまんじゅうも、そのデザインや材料が多彩で、素朴だがどれもおいしそうだった。
 米が収穫できないところではイモを使い、小麦が豊富なところでは小麦を、米にサツマイモやサトイモを混ぜたり、そば粉やキビを使うなど、それぞれの土地の収穫物を上手に利用して、手間暇かけて郷土の味を伝承していた。今と違って楽しみの少なかった時代、農作業の節目や節句、祝儀、不祝儀のたびに人々は集い、郷土の文化と味を楽しんできたのだろう。
 ひな祭りの桜餅やひし餅、ひなあられは、今や全国区である。だが日本各地に女の子の節句を祝う個性的なお菓子や料理が残っている。ぜひとも大切にしてほしいと思う。おせち料理も恵方巻も画一化されて「事前注文」の時代になってしまった。楽にはなったがどこか寂しい。不便で貧しかった時代のほうが食の場面はずっと豊かだったのかもしれない。(生活デザイナー)

 

●日本さがし(2011.2.20掲載)
春らしいお弁当

 季節感のある手の込んだ料理や、器に合わせた盛り付けなど、日本には独自の繊細な技とこだわりがある。笹の葉を美しく切って料理に添えたり、松葉や紅葉など、食用ではない植物も季節の演出に使う。ニンジンや大根を桜や梅型に、サトイモを亀甲に切ることくらい珍しくない。日本の「食」はすごいのだと授業のたびに力説してきた。
 だが、さまざまな国の食事情を調べているうちに認めざるを得なくなったことがある。器用な飾り切りや料理の装飾は日本独自のものではないということである。
 タイには七百年ほど前から野菜や果物の見事な飾り切りがある。中国料理にもカラフルな野菜の薄切りで鳳凰や龍などを大皿に描く見事な前菜がある。季節感や行事色の演出とて日本だけのものではない。わかったつもりでいたが、日本独自の食の美学とはどういうものなのだろうか。
 今回の写真は、伝承料理研究家の奥村彪夫先生が弁当文化について講演された際、デモンストレーションで見せてくださったものである。丁寧な包丁さばきと鮮やかな箸づかいで、小さなお弁当箱の中に、あっという間に「日本らしさ」が展開した。さてこの「日本らしさ」の探求、有形から無形に枠を広げれば実に奥が深い。春からの研究課題に加えようと思う。和洋の食文化をあわせ持つ函館にはたくさんのヒントがあるにちがいない。(生活デザイナー)

 

●女子の時代(2011.2.13掲載)
カラフルなチョコレートと空き箱にアレンジした生花

 バレンタインデーも近づき、チョコレート売り場は今年も大盛況。最近は女性が女友達のために、あるいは自分自身のために買う傾向が目立っている。そのせいか、チョコレートとは思えない色や形の素敵な商品が増えてきた。義理でばらまくなら、質より量、低価格が条件だが大切な女友達や自分に買うなら、ぜいたく感はむしろ必要らしい。
 ところで最近、「女子会」という言葉をよく耳にする。話題のレストランを巡ってランチを楽しむ優雅なマダムは昔からいた。だが「女子会」は年齢層も広く、ランチに限らない。カラオケ屋さんは、子供連れの若い女性専用の個室を用意し、居酒屋は「女子会」のためのパーティープランを提案するようになった。
 「草食系男子」「弁当男子」などの新語と一緒に使われ始めた「女子会」だが、男女雇用機会均等、男女平等と唱える割に、いくつになっても女子は女子で集まりたいものらしい。恋人や夫がいても「もつべきものはやっぱり女友達よ」という海外のドラマや映画は昔からあったが、地下鉄やJRに女性専用車両が登場したあたりから徐々に日本の「女子」も元気になってきたような気がする。
 今の日本のよどんだ空気を打破するのは女性たちの購買力と本能的(?)なたくましさなのかもしれない。(生活デザイナー)

 

●新しい行事(2011.2.6掲載)
コデマリと菜の花で
春らしい食卓を

 数年前から恵方巻きの調査を続けている。歴史性の不確かさや、根拠の希薄さを指摘してきたが、かくも広く日本中に浸透した今は、新しい食文化の誕生と変遷を冷静に見守ろうと思うようになった。
 箸の上げ下ろしにも厳しい日本人が、いかに節分とはいえ、巻きずしを切らずに、しかも手づかみで食べたなど、とうてい考えられない。だが楽しい行事として定着したのなら、クリスマスやバレンタインデーと同じである。否定すべき理由などない。
 今年は1月15日を「女正月」としてPRした企業もあった。正月気分を一区切りする15日を小正月という。その日を女正月と呼ぶ地方もあるのだが、そんな背景はともかくとして、使えるモノは何でも使おうという商魂が動き始めたようだ。女性たちが楽しめるイベントやランチなど、見事な企画が目立っていた。
 昨秋は「秋の恵方巻き」という提案も目にしたが、日本の企業の企画力には敬服するばかりである。今後も、忘れられた日本の古い行事が、なんらかの「縁起」や「伝統」をかざして新しい食文化や商品の形で次々によみがえるのだろうか。
 単調な日常生活に「年中行事」はいつの時代も必要だということか。仲間同士集うための「理由付け」もうれしいのだろう。「新しい伝統」の受容は現代人の寂しさを反映しているのかもしれない。(生活デザイナー)

 

●街の遺伝子(2011.1.30掲載)
東京ミッドタンのビル群

 久しぶりの東京は、分厚いダウンコートが恥ずかしくなるような温かさだった。六本木を歩くと、さらに別世界が広がっていた。ミッドタウンの高いビル群とそれに寄り添う青々とした竹は、時代の先端をゆく人たちの英知の結晶のように見えて、私にはまぶしくてならなかった。
 不景気という言葉さえ無縁の世界に思えた。ミッドタウンの緑は竹だけではない。ヒートアイランド現象緩和のために、ビル群のあちこちに植栽が工夫されている。新しい街づくりのために取り壊された防衛庁舎の跡地に残った約140本の樹木も大切に移植されたと聞く。江戸時代のお屋敷跡の石までも、きちんとどこかに利用されているらしい。
 明治時代は陸軍の駐屯地、戦後は米軍将校の宿舎、その後防衛庁の庁舎があった土地である。代々の住人たちの歴史を丁寧に残しながら、最先端の技術を駆使して開発は進められたのだ。
 ふと札幌のある建物を思い出した。経営が破たんしたあとあっさり壊された。荘厳な美しい建物だったのに、跡形もなくなり、街の景観は大きく変わった。本州の大都市には古い建造物をどこかに残しながらリニューアルしているところも多いのに、残念な話である。
 人も街も進化している。街には街の「遺伝子」がきっとある。受け継ぐも淘汰するも、そこに住む人次第なのだろう。街づくりは実に難しい。(生活デザイナー)

 

●故郷(2011.1.23掲載)
春を待つ桜の木

 久しぶりに晴れたかと思ったらまた雪。道路はどこも大渋滞だし、歩くのも危ない。屋根からの落雪が心配で除雪も油断できない。冬だから仕方がないとわかっていても、愚痴のひとつも言いたくなる。今春大学を卒業する長女は沖縄に就職を決めた。2年間の予定らしい。冬物が要らないので引越し荷物が少ないと喜んでいた。洋服だけではない。コートもブーツもストーブも、分厚い寝具だっていらないだろう。
 なにせこの時期、すでに沖縄には桜が咲いている。うらやましいなあと長女に言えば、夫は、沖縄には台風がくるし、ハブもいると心配する。思えば百点満点の土地など世界中どこにもないのではないか。豪雪や台風だけではない。頻繁に爆発する火山地帯、地震の多発地域、豪雨、厳寒、猛暑、多湿も入れれば、すべての土地がどれかにあてはまる。
 それでもその土地を離れられない人がほとんどなのだ。暮らしやすい土地を探して移動しつづける方法も大昔にはあったのだろうが、家族で定住し、集落を作って我々の祖先は生きてきた。集団だからこそ、苦しい季節を乗り越えてこれたのだろう。
 どこにでも桜は咲く。必ず咲く。短くても夏の日も来るし、紅葉の季節もやってくる。どの土地にも一長一短あるものだ。巡る季節と、美しくも厳しい自然、全部ひっくるめて故郷である。離れて初めてそのよさがわかるから不思議である。(生活デザイナー)

 

●若い人へ(2011.1.16掲載)
時には童心に帰って接したい雪だるま

 「スゴイ雪ですねえ」というのが最近のご近所さんたちとの挨拶である。いくら除雪してもきりがない。交通機関はどれもあてにならず、ハラハラする日が続いている。
 そんな中、今年も大学入試センター試験の日を迎えた。雪国だけなく中国地方や九州も雪の予報が出ていた。なぜこの時期に、と毎年思う。推薦入試は10月ごろから始まるのだから、せめて雪の季節の前にできないものだろうか。
 先日は各地の成人式の様子をテレビで見たが、若い人の笑顔はやはりいい。いつの時代も「大人たち」は自分たちが若かった日のことを忘れて、「今の若い者は…」と苦言を呈したがる。着ているモノ、髪型、口の利き方、勉強の仕方、働き方…、何もかも「自分たちの若いころ」とは違うと言い、頼りない、だらしない、不真面目だなどと思うのだろう。
 だが何一つ気にすることはない。和服に袴、それに編上げのブーツを組み合わせたのは明治の女学生たちだった。Tシャツとジーンズを外出着に昇格させたのも若者だった。新しい文化はいつだって若者が作ってきた。
 言い古された言葉だが、よく学びよく遊ぶのが一番ではないだろうか。遊ぶためには学ばなければならない。学んで働かなければ遊べない。遊びながら優しさとたくましさを身につけてほしい。こんな時代だが、力いっぱい駆け抜けてほしい。(生活デザイナー)

 

●集いの食卓(2010.12.26掲載)
市販品で作ったクリスマスの豪華なケーキ

 今年も残すところ一週間を切った。忙しさに甘え、ともすれば食事も手抜きになりがちだが、先日楽しい経験をした。おもてなしのレッスンで、久しぶりに「クロカンブッシュ」を作ったのだ。本来はシュークリームを飴(あめ)でつないで積み上げるお菓子だが、わが家では市販のスポンジケーキにジャムやクリームとフルーツを挟みながら何層も重ねて土台を作る。円すい形に整えてから全体に生クリームを塗り、市販の小さいシュー菓子やマシュマロなどを飾る。子供達が小さい頃は頻繁に作った。
 大人の生徒さんたちには子どもっぽい作業かと心配したが、みなさん実に楽しそうだった。高く積み上げたのはいいが、いざ食べるとなると切り分けるのも大変。久しぶりにわが家に明るい笑い声が響いた。その様子を見ていた子供たちも、友達を連れてきて自分たちも作りたいと言い出した。「ハレ」の日の食は、共に作り共に食べてこそ意味があるのだとあらためて確信した。
 手間のかかる料理も大勢でワイワイ作ればあっというまである。健康ブームの中、何を食べるかということばかり考えて、誰とどう食べるかは二の次になっていたかもしれない。狭くても散らかっていても、「家」に集って共に食事をすることは人間にしかできない幸せである。来る年は「家」を舞台に生活を見直したいと思う。明るい年であるよう、祈るばかりである。(生活デザイナー)

 

●師走の夜(2010.12.19掲載)
クリスマス色の街

 同居している母に電話があった。見知らぬ訪問介護のヘルパーさんからだった。介護していた女性が亡くなったという。母の学生時代から七十年来の友人である。互いに体が不自由になるまでは、訪問し合ったり食事に出掛けたりしていたのに、そういえばこの半年音信がなかった。自分に何かあれば知らせてほしいというリストに、母の名前があったという。
 母は実兄を亡くしたときより落胆したように見えた。通夜に連れて行くと、受付の女性が母の姿を見るなり駆け寄ってきて涙ぐんだ。電話をくれた女性だった。足腰の悪い母に「よく来てくれました、いつも話を聞いていた、故人がどんなに喜ぶか」と言っては大粒の涙をこぼした。
 ここ数カ月は難病との壮絶な闘いがあったらしい。いつかまた、母を訪ねる日を楽しみに、闘病生活を送っていたという。深い眠りについた友人に対面した母は「サヨちゃん、十七歳からずっとありがとうね。知らなくてごめんね。来てあげられなくてごめんね」と話しかけた。
 小さい通夜に響く母の声に、葬儀社の若い青年も泣いた。「やっと会いたかったお友達に会えたのだから、今サヨさんは幸せです」と最期をみとった彼女は母に何度も礼を言った。介護という仕事の枠を超えて心を込めて尽くした彼女の涙は通夜の間中、乾くことはなかった。素晴らしい女性に会ったと私は思った。(生活デザイナー)

 

●レモンの力(2010.12.12掲載)
小さい書を添えた和風のクリスマス

 クリスマスの食卓をあれこれ考えていたとき、広島県からたくさんのレモンが届いた。教室開設25周年のお祝いにと、広島の友人たちが送ってくれたのだ。北海道から広島に転居した時、かんきつ類の多さと美味しさには本当に驚いた。輸入に頼るしかないと思っていたレモンも豊富で、安心して食することができた。
 好きな色を一つだけ挙げるとしたら、私はレモンの黄色を選ぶかもしれない。見ているだけで元気になる。十数年前他界した義母も、花も食べ物もいらないからレモンを買ってきてほしいと病室を訪ねるたびに私に言った。眺めるだけでビタミンが採れそうだと笑い、レモンの固い表面に爪で傷をつけては、その芳香を楽しんでいた。
 料理研究家だった義母の最後のご馳走はレモンだったのだ。そして、いつも花に囲まれていた義母だが、病床の彼女を最後まで励ましたのは、薔薇でも蘭でもなく、黄色いレモンだった。
 食卓にはブルーの食器をよく使うが、レモンは青い器との対比も緑色との相性も抜群で、一個添えるだけで場面が明るくなる。今年のクリスマスのレッスンはちょっと和風に設えることにした。義父が書いた啄木の歌と広島からのレモンは、赤いサンキライの実とヒムロ杉によく似合った。透明のプラスチック版で被った小さい書はコースターとしてもすてきだった。(生活デザイナー)

 

●歴史(2010.12.6掲載)
広島時代のクリスマスのポスター

 札幌の北大近くのマンションに、小さな教室を開いて25年たった。今では何も珍しくないが、当時はフラワーデザインと生け花を同時に指導することなど、考えられないことだったらしい。さらに花と料理をいっしょに教えるとなると、異議異論もたくさん聞こえてきて、順風満帆の日々とは言い難かった。それでも、東京へ、関西へ、勢いで海外にも飛んで、指導者としての修業を続けたことだけは誇りに思おうとしたい。
 この25年間、高校や短大、大学での仕事を軸に、生物学や生活美学の実践の場として教室を運営し、二人の娘たちもなんとか育ててきた。最愛の父と義母も天国に見送った。札幌から広島県、函館へと住まいも変わり、寂しい別れもあったが、行く先々にすてきな教室と仲間が増えた。