2008年12月3日(水)掲載

◎熱帯植物園でサル温泉入浴

 函館市営熱帯植物園(湯川町3)で、温泉につかるサルたちの愛らしい姿が来園者を楽しませている。1日から本格的に温泉が浴槽に入れられ、3月末まで見られる。現在飼育されているのは104頭で、最初は手を入れ湯加減を見ながら警戒するサルたちも、1頭が入ると次々に“入浴”。寝るとき以外は出たり入ったりしながら、一日の大半は湯につかっているという。

 同園の冬の風物詩としてすっかり定着した光景。湯温は約40度と程良く、じっと目を閉じて気持ち良さそうな表情を浮かべ、毛繕いしたり浴槽の縁に腕を伸ばしたりと、サルたちはくつろいだ様子だ。同園を管理運営するNPO法人函館エコロジークラブの坂井正治さん(70)は「サルも温泉に入ると気分が和やかになり、けんかも少なくなる」と話していた。(宮木佳奈美)



◎企画【映画の街に】上/函館ロケ 協力の輪
 「始まりは『オートバイ少女』の制作だった」

 イルミナシオン映画祭実行委員長の米田哲平さん(58)は、1995年3月に開かれた第1回の「函館山ロープウェイ映画祭」(第6回から現在名に変更)開催のきっかけをこう振り返る。

 オートバイ少女の原作は雑誌「月刊漫画ガロ」に掲載された鈴木翁二さんの同名漫画。歌手のあがた森魚さんが中学、高校時代を過ごした函館を舞台に、93年8月末から約1カ月掛けて撮影した。

 米田さんはシナリオ段階から携わり、ロケハン(適した撮影地を探す作業)や撮影にも全面協力。「東京のスタッフと旅館に寝泊まりし、(函館市内にあった映画館)巴座の中で夜明けまで撮影したこともあった」という。

 市内元町でギャラリーを経営する村岡武司さん(64)も撮影に協力した函館メンバーの1人だ。「地元と協力し、自分が育った函館の街を映画で撮りたいというあがたさんの姿勢に、住民も自然とのめり込んだ」と語る。

 函館はそれまでも多くの映画ロケ地となっていたが、地元住民が映画づくりに中心的に加わる機会は少なく、この映画は地元の映画好きの力を結集した新しい“函館発”作品となった。

 94年夏、港まつりの一環で行われたBAY函館での野外上映でお披露目された。その後、メンバーの「劇場でも上映を」との声を受け、函館山山頂クレモナホールでの映画祭につながる。

 初回から一貫した映画祭のコンセプトは「日本映画の応援」と米田さん。第1回には当時若手監督として注目されていた篠原哲雄、矢口史靖両監督の劇場デビュー作2作品を招いた。第3回から始まった「シナリオ大賞」も「日本の若い才能を育てたい」との思いが込められ、これまでに02年の「オー・ド・ヴィ」を含め9本の映像化が実現した。米田さんは「日本映画には人間の持つ細かな機微や日本の様式美、映像の繊細さがある」と語る。

 今回も新進気鋭の日本の若手監督の作品を含め、邦画界の亡き巨匠をしのぶ特別企画など多彩なラインアップ。日本映画の魅力を函館から発信したい―。米田さんらの思いは変わらない。(新目七恵)

 今年で14年目を迎える「函館港イルミナシオン映画祭」が5日、函館山ロープウェイ展望台クレモナホールで開幕する。今回は第1回映画祭の上映作品を振り返る「函館0年特別上映」などを企画している。「イルミナシオン」はフランス語で「照らし出すこと」「光」などの意味。映画の魅力に“光”を当ててきた映画祭の原点を知る関係者に話を聞き、その魅力を探った。



◎函館市の上半期観光客入り込み/310万人 88年度以降最少
 函館市は2日までに、本年度上期(4―9月)の市内への観光客入り込み数(推計値)を発表した。人数は前年度同期比3・5%減の310万8500人となり、上期で300万人台を記録した1988年以降、最も少なかった。全国的に観光が低迷する中、航空機の利用者が不振だったほか、原油価格の高騰に伴い、乗用車の利用を控える動きが影響したとみられる。(浜田孝輔)

 来函時に利用した交通機関別では、フェリーが同15・7%増の19万4700人を数え、東日本フェリー(同市港町)が導入した2隻の高速船の効果が表れた形となった。乗用車は同5・2%減の53万5000人で、3年ぶりに前年を下回った。

 JRは函館本線が同0・5%増の47万4300人と、乗用車の利用を控えた反動がみられた半面、高速船と競合した海峡線は同5・5%減の40万4700人と振るわなかった。航空機は一部の国内便が使用機材を小型化したこともあり、同6・7%減の37万6500人に落ち込んだ。

 月別では、4月がサクラの開花時期が例年より早まったため好調だったが、5―9月はいずれも3―5%台の前年割れ。宿泊・日帰り別では、宿泊が微減にとどまったものの、日帰りが前年同期を7・4%下回った。

 下期(10月―09年3月)は、東日本フェリーが10月末で高速船の運航を取りやめ、JALが11月から関西空港便を運休し、台湾のマンダリン航空が来年2月以降、函館―台湾間で運航する国際チャーター便を当面見合わせるとしており、明るい材料は乏しい状況。近年、下期は150万人台で推移しており、4年ぶりの年間500万人台回復は難しい状況だ。

 市観光振興課は「全国的に見ると減少数は小幅とはいえ、近隣の自治体と周遊型観光の構築に取り組んでいるだけに、原油価格の高騰は痛手だった」と分析。今後の見通しについては「冬のイベントが目白押しなので、集客力を高められる施策を最大限に講じていきたい」と話している。



◎「木古内高校存続を求める会」解散
 【木古内】道教委の公立高校適正配置配置計画で、2010年度の募集停止が打ち出されている道立木古内高校(木古内町木古内)をめぐり、存続活動に取り組んできた民間団体「木古内高校の存続を求める会」(近藤攻会長)が2日までに解散を決めた。少子化や財政状況などを理由に、町立移管を断念した大森伊佐緒町長の意向を受けた決定で、近藤会長は「行政との呼応がうまくいかず、やむを得ない状況になったのは残念。高校の必要性を訴え、熱意をもって取り組んできただけに、活動の終わりは寂しい」としている。

 大森町長は11月13日に釜谷地区で行われた町政懇談会で(1)少子化による絶対的な生徒数減(2)財源確保の困難さ―を大きな理由に、「高校を残したい気持ちは強いが、教育水準の維持や財政状況などを考慮すれば難しい」と町立化断念を明言した。

 これを受けて1日、町側が求める会に呼び掛けて役場で説明の場を持ち、町立化断念について理解を求めたが、「懇談会と同じ説明はいらない」「もっと前から情報を共有し、一丸となって問題解決に臨みたかった」と反発の声が噴出。この状況を踏まえ、近藤会長が「この場で会の活動を終えたい」と切り出し、出席者の同意を得た。

 求める会は2006年7月に発足。木古内高PTAや同高同窓会、同高体育文化後援会、木古内中PTA、町内会連合会などの代表者で構成し、地元中学生らに同高の魅力を伝えて歩く受験生個別訪問や文部科学省、道教委などにも定期的に陳情し続けてきた。(田中陽介)



◎函館聾学校107年前の「校長」写真発見
 道立函館聾学校(島津彰校長、函館市深堀町27)の前身となる「函館訓盲院」に1901―03年の間、院長として勤めたアメリカ人のメイム・ハントレス・ワドマン夫人の写真がこのほど、神奈川県の青山学院資料センターに所蔵されていることが分かった。写真は同校や地元の関係機関になく、院長就任から107年ぶりに学校の歴史の1ページが埋まった。島津校長(58)は「財政面など当時の困難に挑戦したワドマン院長らの精神に学び、大事にしたい」と話している。(新目七恵)

 函館聾学校は1895年、函館駐在のアメリカ人宣教師ドレーパーさんの母C・P・ドレーパーさんが私財を投じ、青柳町内に設立した。初代院長のドレーパーさんの死後2年間は、遺愛女学校(現遺愛学院)のオーガスタ・デカルソン校長や地元の篤志家らの資金援助で運営を継続。ドレーパー宣教師の後任としてJ・W・ワドマン宣教師が来函した際、当時38歳だった夫人が2代目院長に就いた。

 当時は日本人教員4人、生徒16人。夫の転勤に伴って辞めるまで、施設運営費確保などに努めた。

 島津校長は4月の同校着任後、学校の沿革史に名前はあるものの、写真が1枚もないワドマン夫人の存在が気になり、仕事の合間に調べていた。夫が勤務した日本基督教団函館教会(元町、当時函館美以教会)などに問い合わせたが、大火などで資料は残っていなかった。

 7月ごろ、インターネットで東京都写真美術館の過去の展示会出品写真に名前を見つけ、出品元の青山学院大に問い合わせたところ、同学院資料センターに写真2枚が保管されていることが判明。写真データを取り寄せ、関連資料からワドマン夫人本人と確認した。写真は宣教師の夫とのツーショットと、娘らも一緒に収まった家族写真。ともに東京で撮影されており、家族写真は同学院3代目の故小方仙之助さんが所有し、2006年に寄贈されていた。

 島津校長は「(ワドマン夫人就任当時の函館は)障害児教育は皆無に等しかったのでは」とし、「公的支援はなく財源確保の厳しさはもちろん、度重なる大火や伝染病など、子どもたちの安全確保も苦労したはず」と推測。「骨身惜しまず日本の障害児のために頑張ったワドマン院長ら先人の精神を受け継ぎ、障害者のための行動につなげたい」と話している。

 同校では早速、同センターから送られた写真データを基にワドマン夫人の顔写真を作成し、校長室に飾る予定だ。



◎函館エヌ・デー・ケー、派遣社員150人契約打ち切り
 人工水晶を使った電子部品製造大手の函館エヌ・デー・ケー(函館市鈴蘭丘町3、土谷雅宏社長)は2日までに、人材派遣会社との契約更新を見送り、11月末で派遣従業員約150人との契約を打ち切った。同社は「世界的な景気後退から携帯電話向けの受注が急激に落ち込んでいるため」としている。

 同社は人材派遣会社3社から受け入れていた約240人の派遣従業員のうち、約150人について11月28日付で派遣会社に契約解除を通知した。当面は正社員や自社雇用のパート従業員計約300人と、残る派遣従業員約90人で対応。「さらなる削減計画はない」としている。

 同社は人工水晶メーカー最大手の日本電波工業(NDK、東京)の子会社で、1989年3月に設立。主に携帯電話向けの水晶の振動子や発振器を製造するNDKグループの基幹工場の一つで、2007年3月期の売上高は202億円。今年3月には7棟目の新工場棟も完成したが、新興国など海外需要の落ち込みで、12月以降の大幅な生産縮小を余儀なくされた。

 函館公共職業安定所は「函館では近年まれにみる大規模な派遣社員の契約解除。既に先週末から数人が相談に訪れている」とし、「専門的な業種のため転職も難しく、若者を中心とした人材の流出に拍車が掛かる恐れもある」と懸念している。(森健太郎)



◎女子生徒が暴行受け後遺症、市と男子生徒に1億円の賠償求め提訴
 2005年6月、通っていた函館市立の中学校で、現在高校生の女子生徒(17)が男子生徒に階段から突き落とされるなどしてけがを負い、後遺症が残ったとして、女子生徒と両親が市と男子生徒を相手取り、約1億円の損害賠償を求める訴えを函館地裁に起こしていたことが2日までに分かった。原告側は市に対し、校内での管理責任を怠ったと主張している。

 原告の弁護人などによると、女子生徒は当時、男子生徒から後頭部をつかまれて窓ガラスに頭をぶつけられ、さらに階段から突き落とされるなどして、脳振とうや打撲などのけがを負った。女子生徒はその後、全身に痛みが残る線維筋痛症や心的外傷後ストレス障害(PTSD)などを発症し、現在も治療を続けているという。

 市教委は「当時のことは報告を受けているが、訴状が届いていないため、詳しい内容が分からず、コメントできない」としている。