2008年8月10日(日)掲載

◎原爆死没者道南追悼会で犠牲者の冥福祈る
 長崎が63回目の原爆の日を迎えた9日、函館市内では原爆死没者道南追悼会(道南被爆者の会、道南追悼会実行委員会主催)が市亀田福祉センターで開かれた。会員や一般市民ら約90人が参列し、犠牲者の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。

 道南被爆者の会の田口弘会長(83)は「被爆者の高齢化が進み、道南の平均年齢は77・6歳で70歳以上が73・6%を占める。体験を語れる期間は短いが次世代に語り継ぐため、体力が続く限り、核兵器の悲惨さと廃絶、平和の尊さを訴えていきたい」とあいさつ。全員で黙とうし、1人1人が白い菊の花を手向け、手を合わせるなどして亡くなった被爆者をいたんだ。

 続いて16歳の時、救護隊として広島に入り、被爆した会員の桶田岩男さん(79)が「がれきの下からうめき声が聞こえ、人々が折り重なって死んだ防空壕(ごう)のコンクリートの壁には、苦しんでかきむしったつめ跡が残っていた」などと当時の惨状を語った。

 原爆の被害を生々しく伝えるドキュメンタリー映画「にんげんをかえせ」の上映も行われ、参列者は戦争の悲惨さをあらためて実感していた。出席した同市美原2の公務員伊藤寛さん(32)は「こんな悲劇が生まれないようにするにはどうしたらいいか考えなくてはいけない」と話していた。(宮木佳奈美)


◎朝鮮総連が同胞慰霊祭
 第2次世界大戦中に朝鮮半島から日本に強制連行され、過酷な労働などが原因で祖国に帰ることなく亡くなった仲間を追悼する、朝鮮総連函館支部(崔英学委員長)主催の「同胞慰霊祭」が9日、函館市船見町の慰霊碑前で行われた。在日朝鮮人や韓国人に加え、日本人関係者も姿を見せ、そろって犠牲者の冥福を祈った。

 戦時中の道南地域では、強制連行された朝鮮人が旧戸井線や松前線の鉄道工事などに従事し、その多くが命を落としたと伝えられている。同支部では無念の思いの仲間の霊を慰めようと、1990年に納骨堂を兼ねた慰霊碑を建設。以後、毎年この時期に慰霊祭を開いている。

 この日は約40人が出席。崔委員長は「日本人の方もたくさん参加してくれたことは大変うれしく思っている。過去の事実に目をそむけることなく、互いに手を取り合って未来志向で進んでいこう」とあいさつ。参加者は一人ずつ焼香しながら慰霊碑に手を合わせた。

 崔委員長は「地元の人たちの中でも慰霊塔の存在はもちろん、朝鮮人が犠牲になった事実を知らない人はまだまだ多い。この慰霊碑が、国籍を超えて多くの人たちが足を運んでくれる場所になってくれることを願いたい」と話していた。 (小川俊之)


◎企画【あの日を伝えたい(戦争体験者を訪ねて)】(2)
 「遺体は結局見つからなかった。船で焼死した5人分の骨を、行方不明の乗組員22人の家族で分けたんだ」。函館市日吉町の澁谷武彦さん(74)は、父清司さん(享年42)を亡くしたあの夏を、今も鮮明に覚えている。

 1945年7月14日。米軍の艦載機が、軍需物資の輸送などに当たった青函連絡船を攻撃。翌15日までの空襲で運航中の10隻が沈没などし、壊滅的な被害を受けた。清司さんは函館港沖で座礁、炎上した「松前丸」に機関部の操機手として乗り込んでいた。

 「交代の時間になっても帰ってこない。不安なまま母と妹と夜を明かした」。翌日、父が殉職したらしいと人づてに聞いた。信じられない思いだったが、数日後、国鉄青函局(当時)から通知を受け、行方不明者の家族で骨を分けることになった。

 同市中島町の吉村征子さん(70)も、同日の青函連絡船攻撃で父の沼田亨さん(享年35)を失った。沈没した「第4青函丸」の船長として前日から勤務に当たっていた。

 空襲警報を聞いた時は、兄弟4人と一緒に自宅の押し入れに隠れていた。米軍機が上空を通る「ゴゴゴゴ!」という凄まじい音、屋根に弾がバチバチと当たる音は、幼心に込み上げた恐怖感と一緒に耳に残っている。

 その後、父が行方不明との知らせを受けた。「意味はよく分からなかったけど、もう帰ってこないと知り、声を上げて泣いた。開けた窓から近所の子供たちが私を見ていたのを覚えている」。吉村さんの母房子さん(享年89)は、同年8月13日に二女勝子さん(63)を出産。寮母などとして働き、女手一つで三男二女を育て上げた。

 吉村さんはことし、父の顔を知らない勝子さんを連れ、函館空襲の慰霊祭に参列した。「悔しい思いで亡くなった父に、できるだけ安らかに眠ってほしい。これからもお参りを続けたい」と話す。

 澁谷さんは戦後、国鉄青函局に入局。父の同僚らに支えられ、父が眠る津軽海峡を職場に、船の機関部や事務などで働いた。青函連絡船が廃止になった88年3月、青森発の最終便「八甲田丸」の事務長を務めたことは、今も誇りに思う。「連絡船は自分を育ててくれた“親”。恩返しのためにも、慰霊碑を守りたい」。現在は青函連絡船殉職者遺族会会長として、殉職者法要などを取り仕切っている。

 澁谷さん、吉村さんにとって、父は優しく、頼りがいのある存在だった。船食の卵を食べずに持ち帰ってくれた父、長男に「母さんを頼むぞ」と声を掛けた父…。父の姿を思い出す度、2人の胸に強い思いが込み上げてくる。「戦争を二度と起こしてはならない」「連絡船の悲劇を風化させてはならない」―。(新目七恵)


◎帰省ラッシュ始まる
 お盆を古里や親せきの家で過ごす人たちの帰省ラッシュが9日から始まり、函館市内の陸路、空路の交通機関は帰省客で混雑してきた。

 9日のJR函館駅では、本州方面や札幌からの列車が到着するたび、旅行バッグを手にした家族連れや学生らが一団となって改札口を通過。出迎えた家族や親せきと久々の再会を喜ぶ姿が見られた。

 正午ごろに函館駅に到着した札幌市の会社員橋本一彦さん(38)は13日まで妻博美さん(36)の実家(七飯町)で過ごす予定で、「お墓参りや市内観光をする予定です。5日間を満喫したい」と話していた。

 同駅によると、函館に向かう特急の予約状況は、八戸発が時間帯によって空席の列車はあるが、13日までほぼ満席の状況。札幌発は空席がある。上野―札幌間を運行する寝台特急2本は16日まで上り、下りとも満席。Uターンは八戸行きが15、16日にほぼ満席となっている。

 一方、航空会社によると、空の便は東京、関西方面から10日がほとんどの便で満席。13日ごろまでは早朝、夕方の便を除き満席が目立っている。道内便は空席がある。函館からのUターンは15日午後の便から16日の最終便まで満席となっている。 (鈴木 潤)


◎姥神大神宮渡御祭が開幕
 【江差】道内最古の伝統を誇る、江差町の姥神大神宮渡御祭が9日に開幕した。10・11日の両日は、同神宮のみこし行列に13台の山車が付き従った渡御行列が町内を巡行。沿道では、北前船時代の栄華を伝える時代絵巻が繰り広げられる。

 祭礼初日の9日、江差町の最高気温は25・2度。強い日差しの中で、13基の山車は正午過ぎから同神宮に赴き「魂入れ」を行った。儀式を終えた山車は、それぞれの町内に戻り、優雅な祭ばやしを奏でながら家々を巡った。

 戦国武将・加藤清正の人形を飾り付けた、本町の清正山(せいしょうざん)は、魂入れの儀式の後、切石坂(きりいしざか)と呼ばれる町内有数の急坂を登り、巡行の拠点となっている「本陣」がある本町へ。水色に清正公の家紋を染め抜いたはんてんに身を包んだ子どもたちは、汗だくになりながら「エンヤ!エンヤ!」と掛け声を上げて、懸命に引き綱を握った。

 祭典2日目の10日は、歴史情緒豊かな「いにしえ街道」などをめぐる「下町巡行(したまちじゅんこう)」を行う。午後8時過ぎには、愛宕町商店街に山車行列が集結。同10時からは、13基の山車が勢ぞろいする中、たいまつに彩られた3基のみこしを社殿に収める「宿入之儀(しゅくいれのぎ)」も古式ゆかしく執り行われる。11日は、海沿いの市街地から新地町の繁華街をめぐる「上町巡行(うえまちじゅんこう)」が行われる。(松浦 純)


◎木古内沖で帆船「あこがれ」停泊 特産のホタテをプレゼント
 【木古内】榎本武揚没後100周年記念事業で来道中の帆船「あこがれ」(大阪市所有)が9日、木古内町沖合約10?に停泊した。木古内観光協会の東出文雄会長ら同町関係者が漁船で駆け付け、特産のホタテをプレゼントし、親ぼくを深めた。

 同日開幕した木古内咸臨丸(かんりんまる)まつりに合わせての洋上参加。「あこがれ」は全長51・16メートル、362トン。幕末に同町サラキ岬沖で座礁、沈没したとされる咸臨丸とほぼ同じ船体であることと、この歴史を研究しまちづくりに励む地域住民にエールを届けようと、大阪市が協力した。

 午後4時ごろ同町関係者がホタテ養殖用漁船で、カラフルな信号旗を掲げるあこがれを目指し、30分かけて到着。榎本武揚の部下で開陽丸の機関長だった小杉雅之進のひ孫小杉伸一さん(横浜市在住)が親書を受け取り、東出会長と木古内商工会の木元護会長が「夕飯のおかずにして」と船員に新鮮なホタテを手渡した。

 船員は「これは大きい」「ありがとうございます」と感激。今回の企画準備に尽力した小杉さんは「この縁を大事に、大阪と木古内の交流がさらに深まることを期待したい」と話していた。

 咸臨丸まつり最終日の10日は、午後4時半から役場周辺でメーンイベントの山車行列「咸臨丸パレード」が行われる。 (田中陽介)