2008年8月11日(月)掲載

◎「下町巡行」熱気 頂点に…姥神大神宮渡御祭
 【江差】江差町の姥神大神宮渡御祭は2日目の10日、北前船時代の情景を伝える「いにしえ街道」などを渡御行列がめぐる「下町巡行(したまちじゅんこう)」が、澄み切った晴天の下で行われた。

 渡御行列は午後1時過ぎ同神宮を出発。猿田彦命を先頭とするみこし行列に、天照大神の孫にあたるニニギノミコトの人形を飾った豊川町の「豊栄山(ほうえいざん)」を先頭とする山車行列が付き従い、街道沿いの家々をゆっくりと練り歩いた。

 同8時すぎには、灯火で色鮮やかに彩られた13基の山車が愛宕町商店街に勢ぞろい。羽織やはんてん姿の人たちの熱気に包まれた通り沿いには、祭ばやしと威勢の良い掛け声が響き渡り、祭りの熱気は最高潮に。訪れた大勢の見物客も目前で繰り広げられる豪華けんらんな時代絵巻に魅了された。

 祭礼3日目の11日は「上町巡行(うえまちじゅんこう)」が行われる。行列は正午前に同神宮を出発。漁師町の面影を残す、海沿いの津花、南浜、柏などを経て、陣屋、茂尻の各町をめぐる。日没後は、上野町や本町などの市街地を巡行。山車行列は午後9時ごろに新地町の繁華街に集結。13基の山車が横一線に並び、一斉に祭ばやしを奏でる最大の見せ場を迎える。(松浦 純)


◎企画【あの日を伝えたい(戦争体験者を訪ねて)】(3)
 1945年7月15日。青函連絡船をはじめ、函館市、道南各地を襲った米軍の艦載機は戸井村(現函館市戸井地区)にも襲来した。

 「気がつくと、(イワシをゆでる釜を並べた)浜の穴に飛び込み、妹の耳を押さえていた」。銃弾が飛んできた一瞬の出来事だった。当時、同村泊町に住んでいた函館市松陰町の金澤鉄二さん(74)の脳裏には、空襲時の光景が焼き付いている。

 父藤吉さん(享年80)は地元で8代続くイワシ漁の網元で、母屋や番屋は海岸沿いにあった。11歳だった金澤さんは毎朝早く起きて雨戸を開けるのが仕事。その日も早朝から作業していると、海の遠くから「ゴンゴンゴン」と地鳴りのような音が聞こえた。

 「少しして大量の機械音が大きくなり、何十機という飛行機が飛んできたのが見えた」。当初は日本軍かと思ったが、20分後、地響き音と共に函館方面で真っ黒い煙が立ち上がるのが見えた。その十数分後には「キーン」という金属音を響かせた米軍機が現れ、激しい攻撃が繰り返された。

 「銃弾の音の大きさに驚いたが、恐怖感はなかった。沖で波状攻撃を受ける海防艦を懸命に応援していた」。国全体が「1人1殺」を掲げ、「20歳を過ぎたら生きてないと思い込んでいた」という時代。自分の命が大切だという感覚は麻痺(まひ)していた。

 函館市港町の山崎ユミさん(88)も同日、同村浜町で空襲を経験した。「米軍機は電線をくぐるほどの低空で飛んできた。パイロットの顔が見えるほどの近さで恐ろしかった」という。

 当時、要塞があった同村には、津軽海峡の防備を目的とした津軽要塞守備隊が配置された。山崎さんの父伊藤勇蔵さん(故)は同町で劇場「勇別座」を経営しており、劇場は兵隊の活動拠点として使われていた。

 当時25歳だった山崎さんには、軍幹部との縁談話もあったが、「父が『土地も息子も国にやった。娘はやれない!』と断った。その時は非国民なことを言って大丈夫かなと心配だった」と振り返る。三男をノモンハンの戦闘で失い、所有地も国に奪われた父の無念さ、娘への愛情を感じた瞬間だった。

 終戦の日、2人はそれぞれ自宅で昭和天皇の玉音放送を聞いた。金澤さんは、母が仏壇の前に駆け寄ってわんわんと大泣きした様子を覚えている。「母を見詰めながら、20歳を過ぎてどう生きたらいいんだろうと途方に暮れた」と話す。山崎さんは「一緒に聞いていた兵隊さんが、頭を垂れた姿が印象に残っている」という。

 当正確な調査資料がなく、証言者も減っているため、戸井空襲の詳細な被害状況は今も明らかではない。「たった一日の出来事でも可能な限り正しく調べ、後世に伝えたい。なぜあんなばかばかしい戦争をやることになったのか、考えないといけない」。金澤さんの言葉に力がこもった。(新目七恵)


◎感動 胸に刻み閉幕…野外劇・最終公演
 国の特別史跡・五稜郭(五稜郭公園)を舞台に、スタッフからキャストまで全て市民ボランティアで構成する、NPO法人市民創作「野外劇の会」(フィリップ・グロード理事長)の第21回公演「星の城、明日に輝け」の最終公演が10日夜、開かれた。1200人の市民が会場入りし、熱演するキャストや舞台裏で懸命に働くスタッフらとともに感動を胸に刻んだ。

 ことしは7月4日開幕し、雨天の影響で当初予定していた12回公演から11回公演へ変更。さらに市民の要望を受けて日曜に2回開演した。また今月8日には高橋はるみ知事がゲスト出演し、蝦夷地共和国を誕生させた榎本武揚役を演じるなど、盛りだくさんの話題にわいた。全11回公演で約1万250人の観客を魅了した。

 「コロポックル」に扮した子どもたちがかわいらしい舞いを披露するなど、出演者一人一人それぞれの役を熱演。劇中では夜空を映し出す幻想的な光線のほか、迫力ある箱館戦争の戦闘シーンでは、昨年まで効果音のみだった兵士の銃火器にも本物の火薬を使って臨場感を演出した。

 フィナーレには出演者全員が舞台へ登場。函館野外劇のテーマ曲「星のまちHAKODATE」に合わせて出演者と観客がペンライトを振り、華麗な花火の打ち上げとともに幕を閉じた。

 同会の寺坂伊佐夫副理事長が「2500人を越える市民ボランティアで構成。函館の歴史を凝縮した劇を今後も誇りを持って、市民一人一人の心の中に残していきたい」とあいさつを述べた。来場した北日吉小3年の木村愛美さん(8)は「来年はぜひコロポックル役で参加したい」と話していた。 (小橋優子)


◎モールス信号で言葉伝えた!…榎本武揚がオランダから持ち帰った電信機で実験
 旧幕府軍脱走軍総裁榎本武揚がオランダから持ち帰ったディニェ社製のモールス印字電信機を実際に使ったモールス電信実験が9日、市立函館博物館(青柳町)に隣接するの旧博物館1号館で開かれた。市内の親子や大学生ら15人が参加。名前やメッセージを電信した。

 電気通信大学(東京)歴史資料館学術調査員の田中正智さん(74)が講師を務め、榎本の功績や、アルファベットの文字を点と線で表現するモールス符号、その符号で文字を遠くに送る電信機の解説を行った。

 参加者は、説明を受けた符号で自分の名前を打つことに挑戦。始めは一般的な電信機を使い、ボタンを「ポ」「ポー」と短く押したり長く押し、モールス印字電信で名前を完成させた。

 次に榎本が持ち帰った本物の電信機で名前を打電。ゼンマイを回して操作し、電線で結ばれている同電信機の複製機から文字が印刷されると、子どもたちは「榎本みたい」と歓声を上げて喜んだ。次に簡単なメッセージを打ち、読み当てることに挑戦。印字されたモールス符号の点と線の区別に苦労しながら文を当てていった。

 田中さんは「子どもたちが電信機で文字を打つことがとても早く上達して驚いた」と褒めた。子どもたちは「電気がないのに文字が印刷されるなんて不思議」などと話していた。(山崎純一)


◎成功へ向け団結誓う…案山子物語 顔合わせ会
 2009年8、9月に浅草公会堂(東京)などでの公演を予定している函館市民ミュージカル「案山子(かかし)物語」(同実行委主催)の顔合わせ会が10日、函館八幡小(函館市八幡町15)で開かれた。出演者やスタッフ約40人が参加し、公演の成功へ向けて団結を誓い合った。

 案山子物語は、函館出身の喜劇俳優、故益田喜頓さん(享年84)の書き下ろし作品で、市民ミュージカルではこれまで函館で2度、札幌で1度上演してきた。今回は、09年が益田さんの生誕100周年であることから、8月23日の函館市民会館での公演に加え、9月21日には益田さんの活躍の中心舞台であった浅草で初めて上演される。

 顔合わせ会には、小学3年生から80代までの出演者28人と、演出を担当するみのゆずるさん(劇団自由飛行館代表)らスタッフが出席。みのさんは「毎回の練習に集中し、そのつどしっかりと内容を覚えていくことを心がけてほしい」とあいさつ。続いて参加者が自己紹介を行い、練習に向けての抱負を語った。

 メンバー中最高齢の市村政隆さん(88)は「益田さんはあこがれの存在だったので思い切って参加を決めた。若いメンバーの足を引っ張らないように頑張りたい」と話していた。

 練習は16日から同小でスタート。毎週土、日曜に基礎的レッスンを重ね、来年1月のオーディションで配役が決まる。なお、同ミュージカルでは8月31日まで出演者の募集を継続している。同実行委では「まだキャストが不足しているので、興味がある人はぜひ参加してほしい」と呼びかけている。問い合わせは函館市民会館「市民ミュージカル係」TEL0138・57・3111。(小川俊之)