2009年7月11日 (土) 掲載

◎「人との触れ合い大切」未来大開学10年記念・茂木さん講演会

 公立はこだて未来大学(中島秀之学長)の開学10年記念講演会が10日、函館市亀田中野町の同大で行われた。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーで、脳科学者の茂木健一郎さんが、脳の持つ「創造性」のすばらしさや活性化のコツを語った。

 茂木さんの専門は脳科学、認知科学。「脳と仮想」など多数の著書があり、テレビへの出演や文芸、美術評論など幅広い分野で活動している。

 会場には市民や学生ら約300人が集まった。演題は「脳と創造性と『喜び』」。茂木さんは「創造性は脳が持つ最も素晴らしい働きの1つ」とし、創造性をはぐくむためには人との触れ合いや多様性が必要と強調した。

 さらに、創造性やひらめきをリンゴの実に例え、函館の風土や歴史、出会いなどすべてが“土”になるとし、「良い実を成らせるためには土づくりが大事。学生の皆さんも研究だけでなく函館の暮らしを楽しみ、いろいろな経験をして」と呼び掛けた。

 さらに、「人生は何があるかわからない『偶有性』の海に飛び込むようなもの」と語り、「人生にうまく対応するには感情豊かでないといけない。喜怒哀楽のバランスが良い人は、脳が人生の不確実性とうまく向き合おうとしている」と話した。

 最後に「未来大が10年後、日本のすごい大学として認知されれば街も盛り上がるはず。応援している」とエールを送った。時折ジョークを交えたユーモラスな語り口に来場者は聴き入り、大きな拍手を送った。(新目七恵)

 【写真】講演する茂木さん



◎未来大が学科再編へ 2010年度から

 公立はこだて未来大学(中島秀之学長、函館市亀田中野町116)は2010年4月、開学以来初めての学科再編を行う。情報アーキテクチャ学科に3年生から移行できる「高度ICTコース」を新設。複雑系科学科を「複雑系知能学科」に名称変更し、この学科に情報アーキテクチャ学科にあった知能システムコースを移す。新設コースで産業界のニーズに応えるとともに、複雑系と知能系を融合させて学問分野の発展を図り、新しい社会システムをデザインできる人材育成を目指す。

 学科再編により、従来の2学科4コースから2学科5コースとなる。1学年の定員は240人のままで、教員数も変わらない。

 高度ICTコースは大学院への進学を前提とし、高度な視野を持つプログラマーを養成する。中島学長は「大学院までの6年間一貫教育が最終的な目標」と説明する。

 複雑系知能学科に知能システムコースを移す狙いについて、中島学長は「人間の『知能』の仕組みが複雑なのと同時に、現代社会のさまざまな問題も複雑で知的な方法でないと解決できない。この両者を融合し、研究者の相互刺激を促進することで多視点性を持つ学生を育てたい」とした上で、「将来的には学科の仕切りもなくし、分野を超えて教員が自由に交流できる学習環境を整えたい」と展望を語る。

 小西修副学長は「学科再編を次の10年へのステップとし、情報技術を使ってこれからの社会をデザインできる人材を養成するのが大学の目標だ」と力説。中島学長は「公立大学の使命は函館における知の拠点として機能すること。世界で活躍する教員陣のつながりを生かし、函館と世界をつなぐ役割を果たしたい」と話している。

 未来大は2000年に開学。現在の在籍学生数は学部と大学院計1170人。(新目七恵)



◎歌手・暁月めぐみさんが、函館観光大使に

 函館出身の歌手、暁月めぐみ(旧名=暁恵)さんが函館観光大使に任命されることになった。8月5日に6年ぶりに発売される新曲「ふるさとになりたい」(ユニバーサルミュージック)が、函館をテーマにした作品で、8月13日に緑の島で行われる開港150周年記念ライブでも披露される。暁月さんは10日に函館入りし、「この歌を聞いた多くの人たちが函館を訪れたくなるように、心をこめて歌いたい」と話した。

 暁月さんは、NHKのど自慢チャンピオン大会出場をきっかけに、高校卒業後に作詞・作曲家の故中山大三郎氏の内弟子となり、1998年に演歌歌手としてデビュー。以降、3枚のシングルをリリースしてきたが、今回初めてポップス系のバラードに挑戦することになった。

 「ふるさとになりたい」は、函館生まれの女性が恋人にふるさとの魅力を語る逆プロポーズソング。11日には函館市電内でアコースティックライブが行われ、一足先に地元のファンの前でお披露目される。10日に作曲家の浅野佑悠輝さんと函館入りした暁月さんは、函館市役所の観光コンベンション部を訪れ、鈴木敏博部長から観光大使任命の報告を受けた。

 鈴木部長は「歌詞の中に函館の魅力がたっぷり盛り込まれていて、PRにはぴったりの作品」と話すと、暁月さんは「観光大使という重要な役割に身が引き締まる思いだが、精いっぱい頑張って歌っていきたい」と笑顔で答えていた。(小川俊之)



◎益田喜頓賞は琴奏者の宮崎加奈古さん

 函館市文化・スポーツ振興財団(金山正智理事長)は9日、本年度の「益田喜頓賞」に筝曲美音和会の代表、宮崎加奈古さんの昨年の公演「~春に奏でる~宮崎加奈古(雅是歌)箏・三弦リサイタル」を選出したと発表した。創意性のあるプログラムや音楽的な表現力などが高く評価された。

 同賞は函館出身の喜劇俳優、故益田喜頓さんの功績にちなみ1999年度に創設。過去1年間に市民会館や市芸術ホールを会場に優れた舞台芸術を行った団体・個人に贈られる。これまでに花柳星衛紀会、函館MB混声合唱団、函館地区一般吹奏楽団連絡協議会5団体など9団体・個人が同賞を受賞している。

 宮崎さんは伝統的な筝曲や現代邦楽の演奏活動を続ける傍ら、フルートやキーボードなどの洋楽器、吹奏楽などあらゆる音楽形態との共演を重ねる琴奏者。昨年の公演は25年ぶりとなるリサイタル・ステージで、十三弦、十七弦、三味線のすべてに挑戦。「六段の調べ」の古典から現代曲までの6曲で独奏や二重奏、四重奏、さらには三味線と唄の弾き語りも披露。ステージとしての総合的な完成度も高かった。

 宮崎さんは「自分へ挑戦する意識で臨んだステージだったので受賞は素直にうれしい。邦楽という狭い世界で生きる自分にとって今後の自信につながる」と喜んでいた。

 表彰式は11月に開かれる函館市民文化祭の期間中に実施する予定。(長内 健)



◎企画「記憶をたずねて」ルポ函館空襲2・森成木さん

 「あそこに見える赤い灯台。あれを目印に入港したんだ」。函館市北ふ頭の一角に立ち、同市に住む森成木さん(84)は懐かしげな声を上げた。視線の先には穏やかな波が広がり、遠くに防波堤や灯台の先が見える。「もう60年以上も昔のことだからねぇ…」。元は国鉄有川ふ頭だった場所を見詰めながら、森さんは関西弁の残る口調でおぼろげな空襲の記憶を語り出した。

 兵庫県出身の森さんは、岡山にあった短期高等海員養成所を経て1944年、19歳の時に国鉄青函船舶鉄道管理局に入局した。翌45年7月15日、「第一青函丸」の3等航海士として勤務中、空襲に遭った。

 出航したのが青森側だったか、函館側だったかは覚えていない。船は航行中に空襲警報を受け、近くの青森・三厩港に避難した。しかし米軍の艦載機に見つかり、港内で攻撃を受けた。「船を見つけて米軍機が急降下してきた。ブリッジ(甲板)にいた私たち船員は我先に下に逃げたよ」。森さんは主管室の便所に逃げ込み、入ってきた二等航海士と一緒に身を潜めたという。

 「すると機銃掃射のバリバリという音が盛んに響き、ドーンという爆撃音がした。しばらくして船が傾き、沈み出したんだ」。森さんの淡々と語る様子から、当時の恐怖を知ることは出来ない。

 浅瀬だったため船は下部の車両甲板が浸水した程度で済み、第一青函丸の乗組員76人は全員無事だった。しかし、国鉄青函局発行の『青函連絡船50年史』によると、森さんが被災した日とその前日に、青森県野内港近くで第六青函丸が座礁炎上し、乗組員73人中32人が死亡。第二青函丸も青森港で沈没し、21人の命が失われるなど、連絡船は壊滅状態となった。

 同僚の死について尋ねると、「大変なことになったなと思った」。ポツリともらしたその言葉の重みを考えると、胸が痛んだ。

 第一青函丸を含め、貨物船の出入港場所として何度も行き来した有川ふ頭の周辺は、今では貨物ターミナルとしてさまざまなトラックが行き来する。雲が広がる空に、カモメがのんびりと飛び交う。「当時の面影はほとんどないな」。森さんは55歳の定年まで船上生活を務め上げた。青森にはまだ引き上げられていない連絡船もある。志半ばだった魂の眠る海には、当時と同じ冷たい風が吹き抜けていた。(新目七恵)