2009年7月12日 (日) 掲載

◎景気対策の推進など決議 全道商工会議所大会

 北海道商工会議所連合会(道商連)主催の第59回全道商工会議所大会が11日、函館市大森町のホテル函館ロイヤルで開かれた。景気対策の推進や北海道新幹線の建設促進などの議案25件、特別提案2件を採択し、道内経済の活性化に向けた関係機関への要望事項を決めた。

 函館開催は12年ぶり。大会には道内42会議所の会員や来賓ら約480人が出席した。大会長の高向巌・道商連会頭はあいさつで「経済団体も自助努力が必要。農商工連携などで新たなビジネスを創造し、道内外に積極的に発信しよう」と訴えた。

 今年は厳しい経済情勢を反映して全道の会議所から計300件以上の提案が寄せられた。大会決議には交通インフラの整備促進も盛り込まれ、北海道新幹線について「新函館―札幌間の全線フル規格での早期着工」「新青森―新函館間の早期開業」を求めた。

 特別提案では、農産品の輸入自由化をめぐるWTO(世界貿易機関)農業交渉と日豪EPA(経済連携協定)交渉の日本提案の実現に加え、北方領土返還の早期実現が含まれた。議案と特別提案はいずれも原案通り採択され、今後、国や道などに要請する。

 会場には函館の特産品を集めた物産コーナーやガゴメ(トロロコンブの仲間)製品のアンテナショップも設置。道内産の日本酒やワインの展示試飲コーナーもあり、大会で酒の地産地消運動「『酒チェン』もっと飲もうよ! 北海道のお酒」も宣言した。

 最後に岩崎産業(鹿児島市)の岩崎芳太郎社長が「地方主権と廃県置藩~地方の繁栄なくして日本の未来なし」と題して特別講演し、閉幕した。来年度の大会は紋別市で開催する。(森健太郎)



◎伊藤さんの足跡伝える「追悼写真展」

 昨年8月、アフガニスタンで農業支援中に拉致、殺害された伊藤和也さん(享年31)の「追悼写真展~アフガンに緑の大地を~」が15日まで、函館市五稜郭町43の五稜郭タワーのアトリウムで開かれている。NGO(非政府組織)ペシャワール会(中村哲現地代表)主催。伊藤さんが撮影した愛らしい少女や雄大な風景などの写真82点が並び、市民の関心を集めている。

 伊藤さんは「アフガンを緑豊かな国に戻そう」と2003年から約5年間、現地で農業支援に汗を流していた。追悼写真展は伊藤さんの足跡を多くの人に知ってもらうことを目的に全国で開催。函館でも文化団体などが実行委員会を発足させ、約3カ月間準備を進めてきた。

 会場には、伊藤さんが井戸の掘削作業に励む写真や現地の仲間との集合写真のほか、伊藤さんがかかわった田んぼ、さらには絶景の渓谷の写真もある。中でも一面の菜の花畑にたたずみ、底抜けに明るい笑顔を見せる少女の写真が印象的。伊藤さんの生い立ちや周辺国の地図も展示してある。

 実行委の梶原康男さんは「平和を願う伊藤さんの雄弁なメッセージがどの写真からも伝わってくると思う。短期間だが、多くの人に見てほしい」と話している。

 また、現地の子どもたちの食糧・教育支援などにあてる募金「伊藤和也アフガン菜の花基金」も行っている。入場無料。午前9時―午後7時(最終日は同5時まで)。(長内 健)は学部と大学院計1170人。(新目七恵)



◎企画「記憶をたずねて」ルポ函館空襲3・石垣早苗さん

 「この場所は忘れられない」。当時実家があった場所に立って函館市石崎町の石垣(旧姓・川島)早苗さん(83)は空襲の日を思い出してつぶやいた。今は平屋の民家が建つ。実家は2階建てだったが建て替えられ、現在は誰も住んでいない。砂利が敷き詰められた敷地には雑草がまばらに生えたままだ。実家の面影は全くないが、石垣さんにとって空襲の恐怖を味わった場所で記憶から消えることはない。

 1945年7月14日、米軍機は銭亀沢村谷地町地区(現在の石崎町)の前浜で輸送船を攻撃し、機銃掃射で付近の民家にも被害を及ぼした。旧銭亀沢村は海岸沿いに走る国道の両脇に細長く広がる漁業のまち。のどかな漁村風景はこの日一変して、村人を震え上がらせた。

 空襲警報が鳴り、家族は裏山に避難したが、石垣さんと4歳年下のめいは荷物をまとめていて家に残った。「2階の窓から海の方を見てみたら飛行機が数機見えた」。石垣さんは前浜の消波ブロックの上空辺りを指差した。薄い雲に包まれた初夏の空。海岸に人の気配はなく、波の音だけが聞こえてきた。静かな光景から当時の騒々しさは想像もつかない。

 「ガラスが壊れ、バンバンッと家の屋根に弾が当たる音がした」。疎開してきた人の荷物が居間に置いてあり、その陰に2人とも身を隠した。「めいは助けてくださいとお経を唱えてしがみついてきて、わたしも生きた気持ちがしなかった」。石垣さんの柔和な表情が一瞬だけ曇った。

 弾が2、3発、実家の屋根を突き抜けた。攻撃は30分ぐらい続いたと石垣さんは記憶する。若い女性2人で恐怖に堪えた時間は、実際よりも長く感じたかもしれない。

 その時の状況を言葉で表現してもらうも「怖くて、怖くて」に終始する。実家付近では機銃掃射で馬のすねに弾が命中したほか、重軽傷を負った人もいたらしい。「これが戦争っていうものか」。浜風に髪をなびかせ、波を見つめて石垣さんは繰り返した。戦争の無意味さを物語る率直な一言が頭から離れなかった。(宮木佳奈美)



◎くも膜下出血から奇跡の復活…PG心の支えに/森町砂原・鈴木均さん

 【森】「パークゴルフが命の支え―」。さわらパークゴルフ協会相談役の鈴木均さん(59)=砂原西4=は、2001年に大動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血で倒れてから奇跡的な回復を遂げ、5日にあったかさわらパークゴルフ場(砂原3)で開かれた同協会の例会で始球式を務めた。長い闘病生活の末にコースに帰ってきた喜びを示しながら「このゴルフ場の全ホールを回れるまで回復したい」と、新たな目標を見据えている。

 2001年11月。夫婦で経営するコンビニエンスストアでの勤務を終えた妻千鶴子さん(54)が夕方自宅に戻ると、倒れていた鈴木さんを見つけた。意識はなく、呼吸停止の状態。2時間ほど前に倒れ、誰にも気づかれないままだった。

 手術で一命は取り留めたが、医師の所見は「このままでは寝たきりの生活。会話は無理です」。家族は覚悟を決めながらも、手術の数カ月後から「(自分たちのことが)わかるかわからないは関係なかった」(千鶴子さん)とリハビリを始めた。

 97年の同協会設立時に理事として名を連ねて以降、パークゴルフに熱中。コースへの復帰がリハビリの原動力となった。退院までには丸6年を要したが、言葉も交わせるようになり、車いすもいらなくなった。一緒に協会を立ち上げた岡田富雄会長(70)は協会から鈴木さんの籍を抜かず、相談役として残した。「生命力の強さに驚いた。早く戻って来いという気持ちだった」と岡田さんは話す。

 07年11月に退院。昨年、念願だった同パークゴルフ場に足を運んだ。当時は全身に力が入らず、クラブを握ることもままならなかったが、現在は平たんな数ホールでプレーできるまで回復が進む。

 「皆さん、どうも」。例会の開会式で、鈴木さんが発した言葉はこの一言のみ。しかし、集まった約40人の仲間たちは拍手で復帰を喜び、鈴木さんも満面の笑みで応えた。「ボールを強く打って飛ばすのがだいご味。全部のコースを回れるように頑張りたい」と鈴木さん。パークゴルフへの思いが強さを増している。 (千葉卓陽)



◎函館学で「箱館八景扇面図」解説

 市内8高等教育機関で構成するキャンパス・コンソーシアム函館の合同公開講座「函館学2009」の第3回「箱館八景扇面図 考」が11日、函館国際ホテルで開かれた。約320人が参加。講師の山形周文さん(山形法律事務所事務局長)が、幕末の函館の様子を記した貴重な資料について詳しく解説した。

 函館市中央図書館が所蔵する箱館八景扇面図は、今から約155年前に作られた。駒ケ岳、立待岬、函館山など八カ所について、8人の作者が詠んだ「七言絶句」の漢詩と墨絵の風景画を両面に配した扇を、はがして裏打ちし上下二段に並べて一本の掛け軸に表装したもの。

 山形さんは、駒ケ岳の夕暮れの雪景色を詠んだ「駒嶽暮雪」の作者である堀織部(1818-1860)にスポットを当てた。江戸に生まれた堀は、優秀な成績で幕府官吏となり、嘉永6(1854)年に箱館奉行に任ぜられた。「駒嶽暮雪」は箱館奉行時代に詠まれたもので、大自然の美しさを絶妙に表現しながら遠い故郷を思う気持ちも垣間見える。山形さんは「堀は蝦夷地の開拓に力を注いだ偉大な存在だったが、切腹自殺による悲劇的な最期を遂げている。謎の多い彼の自殺の真相についても掘り下げていきたい」と話した。 (小川俊之)