2010年8月13日 (金) 掲載

◎道南各地で大雨被害

 発達した前線と台風4号の影響で道南地方は11日から12日にかけて、各地で激しい雨に見舞われた。この影響で各地で住宅の浸水や農地や道路の冠水被害が発生。また線路に土砂が流出するなどの影響でJR函館線や江差線が一時運休するなど、帰省客の足を直撃した。

 函館海洋気象台によると、降り始めから12日午後8時までの総雨量は八雲町熊石で235.5ミリ、八雲で219ミリ、江差で204ミリ、森で202.5ミリを記録。24時間当たりの降水量は八雲で190ミリ、江差で184ミリ、奥尻で133.5ミリと観測史上最大を記録したほか、森で186ミリ、熊石で196ミリを記録した。

 JR北海道によると、大雨の影響で11日午後8時10分から12日午後7時までに全道で111本が運休(部分運休含む)し、約2万2300人に影響した。道南でも函館線の山越―八雲間(いずれも八雲町内)で同日未明に土砂流出が発生し、スーパー北斗などが運休したが、正午過ぎに運転を再開。同じく運休していた江差線も夕方までに再開した。

 道開発局によると渡島・桧山地域の国道229号の乙部町内とせたな町内の2区間、道道は9区間で通行止めとなっている(12日午後11時現在)。

 函館海洋気象台によると、台風4号は13日午前3時には根室市の南約200`の海上に達する見込み。大雨のピークは過ぎたが、土砂災害や河川の増水などに注意が必要としている。(小川俊之)



◎日吉が丘小学校金管バンド部が初の全道大会へ

 7月下旬に開かれた「第55回道吹奏楽コンクール函館地区大会」(函館地区吹奏楽連盟など主催)で、函館日吉が丘小学校金管バンド部(黒島歩部長、部員48人)が金賞を受賞し、創部約30年で初となる全道大会出場権を獲得した。地区大会会場で快挙を耳にし、感激で涙が流れたという黒島部長(11)は「みんなで心を一つにした成果が出た。本当にうれしい」と声を弾ませる。

 同大会は小中高、大学、一般の5部門に分かれ、さらに人数の多い順からA、B、Cの編成別で演奏技術などを競う。演奏レベル順に金、銀、銅の各賞が贈られ、金賞受賞団体の中でより技術の高い団体が全道大会に進出できる。同地区の小学校の部には13団体が参加し、金賞受賞団体は8団体。このうち日吉が丘、北斗上磯、同久根別が全道大会出場権を獲得した。

 金管バンド部の顧問を務める古川典之教諭(37)は、これまで上磯小、木古内小など道内屈指の実力校で吹奏楽指導法の基礎を学び、日吉が丘小には昨年度赴任。部員をまとめ、指揮も振る初の顧問就任に「責任重大で苦労の日々が続いた」という。しかし、部活の保護者会や鳥羽栄治教頭、部員半数の楽器を貸す市内の小学校の存在が大きかったといい、「前任の顧問が大切にしていた礼儀や作法の指導も徹底したが、何よりも周囲の好意が快挙に導いたと思う。本番は全道代表校に選ばれたい」と意欲に燃える。

 来月2日から始まる全道大会小学校の部には道内各地から24団体が出場。黒島部長は「あこがれの全道の舞台で合奏できるなんて夢のよう。聴いている人たちが感動するような演奏を披露したい」と張り切る。

 同校の三島千春校長は「きっとやってくれると信じていた。信頼関係が素晴らしいうちの金管バンド部には、もっと高いところを目指してほしい」とエールを送る。(長内 健)



◎企画【戦時下の青春・上】高橋順一さん(83)

 現在は複数の学校が立ち並び、住宅地として発展した函館市美原地区。かつてこの場所で軍用飛行場の建設が行われていたことを知る人は少ない。太平洋戦争末期の65年前、北部軍陸軍特設作業隊に所属し現場責任者として工事に携わっていた人間としては「戦争の記憶が人々の頭の中から消えてしまうことは平和な証拠である一方、二度とあのような惨禍を繰り返さないためにはしっかりと伝えていかなければならない出来事」と複雑な心境を語る。

 勝利を信じていた17歳の少年にとって、日本のために責任ある任務を果たせることは、このうえない幸せだった。成年男子のほとんどが出征していたため、労働力の中心となったのは一般家庭の主婦と、朝鮮人労働者などだったという。

 1945年7月の始めには工事も9割方完成に近づいたが「そのころから米軍艦載機のグラマンF6Fが、毎日低空飛行で工事作業者の頭をかすめて威嚇を繰り返すようになった」と回想する。ただ、作業員が一般市民であったためか発砲は皆無だったという。

 そんなさ中の7月14、15両日に起こったのが、青函連絡船への一斉攻撃。「米軍は未完成の飛行場を攻撃するより、軍事物資を輸送していた航路を断つことの方が有効と判断したのでは」と分析する。

 さらに1カ月すると、広島と長崎に超強力爆弾が投下され未曾有の被害が出たことを知った。まだ「原子爆弾」という名称がない時期だ。そんな中、次の爆撃目標は函館ではないかとのうわさが軍の内部から広がった。広島にも長崎にも軍港と造船所があり、津軽海峡の交通要所である函館が狙われる可能性は高いと震えあがった。

 8月15日、工事現場の広場に集合しラジオから流れる敗戦を伝える天皇の声で、その危険は回避されたことを知る。同時に軍用飛行場の工事も永遠にストップした。機密が漏れるのを防ぐため、書類などはすべて焼却処分されたため、当時の詳しい様子をたどることは難しい。「だからこそ、私が記憶していることを次の世代に伝えていかなければ」と使命に燃える。

 戦争被害から鮮やかな復興を遂げた函館とともに戦後を過ごしてきたが、ここ最近は街に元気がなくなってきたことを痛感する。そんな中、力を注いでいるのが函館に市民サーカス団を設立しようという活動。「函館市民さあかすを創る会」代表としてフォーラムなどを開いて賛同を呼び掛けている。「人々の心に笑いを届けることが、戦争のない平和な世の中につながると期待したい」と夢を膨らませている。

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 8月15日は65回目の終戦記念日。戦争体験者に、当時の記憶は今も鮮明に刻まれている。10代後半の青春時代に終戦を迎えた市内在住の3人の証言を通して、平和のあり方について考える。


◎同胞慰霊祭、犠牲者の冥福祈る

 戦時中に朝鮮半島から日本に強制連行され、祖国に戻ることなく死亡した朝鮮人らの霊を弔う「同胞慰霊祭」(朝鮮総連函館支部主催)が12日、函館市船見町の朝鮮人慰霊塔で行われ、関係者が犠牲者の冥福を祈った。

 戦時中の道南では、強制連行された朝鮮人らが旧戸井線や松前線の鉄道工事など過酷な労働に従事し、その多くが命を落としたと伝えられている。仲間を追悼しようと同支部が1990年に納骨堂を兼ねた慰霊塔を建立。塔には約20人の御霊を祭っており、以来毎年、慰霊祭を行っている。

 今年は慰霊塔を建立して20年の節目に当たり、劣化した塔の外壁を全面塗装して慰霊祭を迎えた。同支部や在日本大韓民国民団(民団)函館支部のメンバー、日本人関係者ら約20人が出席。今回初めて住職を招いて法要を行い、東京都新宿区にある観音寺の徐洪錫住職がハングルで読経。参列者も祭壇で焼香し、手を合わせていた。

 総連函館支部の崔英学委員長が「在日朝鮮・韓国人の歴史、先人の思いを語り継いでいくうえで慰霊祭は意義のあること。節目の20年を迎え、その思いを新たにした」と話していた。