2010年8月14日 (土) 掲載

◎大雨でサクラマスなど800匹死ぬ…北大七飯淡水実験所

 【七飯】11日夜からの大雨の影響で、北大北方生物圏フィールド科学センター七飯淡水実験所(町桜町2、山羽悦郎所長)で飼育するサクラマスなど淡水魚約800匹が死んだことが13日、分かった。同実験所によると、河川水を引き込むための取水管に大量の砂が入り、実験所への水の流れが止まったため。同実験所では、7月末の大雨でも泥が入り込み、大量の魚が死亡したばかりといい、今回と合わせて、飼育する親魚の約9割に当たる1400匹以上が死ぬ壊滅的な被害となった。

 同実験場は、鳴川から取り込んだ河川水を利用し、敷地内にある13のコンクリート池などでサケマス類などの淡水魚を飼育している。11日夜からの雨で、鳴川近くの取水管に砂がたまり、12日早朝に水の流れが完全に止まったという。職員らはチョウザメなどの一部の魚を避難させるなど対応に追われ、取水口近くのマンホールから砂を取り除いたり、清掃業者に依頼し池の汚泥もくみ上げたが、13日午後になっても泥がたまった状態が続いているという。

 この影響で、秋の実習で採卵予定のサクラマス約300匹や、カットスロートなど計約800匹が死亡。中には15年以上飼育するイトウも含まれ、山羽所長は「愛着があった魚も多い」と肩を落とす。井戸水を利用し、水槽で飼育している実験棟内の稚魚類は無事だった。

 同実験所では、1990年8月にも大雨の影響で、親魚約1200匹が死ぬ被害に遭ったが、これまで河川水の流れそのものが止まったことはなかったという。大量の酸素を必要とするサケマス類に与えた影響は大きかったとみらる。山羽所長は「砂で取水管が詰まることはこれまでなかったことで、どこから砂が流れ込んだのか、原因をはっきりさせないとならない。イトウが産卵可能になるまでは約6年、そのほかの魚も親魚となるまでは数年の時間がかかるだろう」と話していた。(今井正一)



◎コンベンション協がフリーペーパーを創刊

 函館国際観光コンベンション協会(木村孝男会長)は、道南の観光スポットやグルメ、お土産、温泉などの情報を紹介するフリーペーパーを創刊した。これまでの有料版ガイドブックを廃止し、夏と冬の年2回、季節に応じた旬の最新情報を観光客らに提供する。

 これまで同協会が発行していた「函館ツーリズムガイドブック」(500円)を2009年版で廃刊。道南の観光情報をより気軽に手に取ってもらい、広域観光につなげようと、本年度から広告収入を主体にしたフリーペーパー化に踏み切った。

 「みなみ北海道ちびぷらり」の名称で、A4判68n。オールカラーで函館をはじめ道南2市16町のドライブ地図や観光名所、飲食店などを写真を使って詳しく紹介。人気のスイーツや体験観光スポット、温泉のほか、巻末に宿泊施設リストも盛り込んだ。

 内容は同協会の会員企業から本年度に入り募集した最新の情報が満載。7月末に復元オープンした箱館奉行所も見開きで取り上げている。誌面ではオリジナルキャラクターの「くま執事」が案内する。

 夏号は計4万部作製。道南の道の駅11カ所や市内の主要観光施設、観光案内所などで配布している。12月には冬号も1万5000部発行する予定。同協会は「写真を多めに使い、視覚的に分かりやすく工夫した。フリーペーパーを手に道南の魅力を堪能してほしい」とPRしている。(森健太郎)



◎救助技術 全国で競う…函館市消防本部 2種目で全道優勝

 函館市消防本部の職員11人が、7月24日に札幌市で行われた「第39回全道消防救助技術訓練指導会」の2種目で優勝を収め、8月27日に京都で実施される「第39回全国消防救助技術大会」への切符をつかんだ。職員らはこれまでの訓練の成果を発揮し、好成績を収めようと近づく大会に向け、士気を高めている。

 全道大会は全道の32消防本部から約180人が出場し、救助技術を競った。函館市消防本部からは、指導者を含め引揚救助に6人、ロープブリッジ救出に5人がエントリーし、他の強豪を寄せ付けない高い技術力と素早さで、引き揚げ救助では3年連続、ロープブリッジは2年連続の全国大会出場を決める快挙を成し遂げた。

 出場した署員は働き始めて3年前後の若手が多く、普段は東消防署的場支署や同署花園出張所、北消防署亀田本町支署で業務に従事。昨年9月の選考会終了後から、連日8時間ほどの訓練を重ねてきた。

 引き揚げ救助の竹内俊司隊員(27)は「チームワークが重要な種目。優勝を目指して頑張りたい」と話し、ロープブリッジの畑山遼吾隊員(26)は「タイムだけとらわれないで、日々の練習の成果を発揮して良い結果に結びつけたい」意気込む。また、指導者の五十嵐裕晶消防士長(35)と渡会悟消防士長(36)は「昨年とはメンバーががらりと変わり大変だったと思うが、練習するにつれプロ意識が高まってきている」と仕上がりに自信を見せる。

 18日には、優勝報告を兼ねた西尾正範函館市長への報告会も行われる。(小杉貴洋)


◎企画【戦時下の青春・中】斎藤 繁さん(82)

 1945年7月14日未明から津軽海峡を舞台に繰り広げられた米軍機の空襲は、またたく間に青函連絡船を壊滅状態にしていった。「その日(14日)は函館での勤務交代を待って午前中は寮にいた。『連絡船が空襲を受けた』という情報は入ったが、これほどの被害は想像もしていなかった。自分の乗る第八青函丸は無事に函館港に到着したが、船内には不発弾が着弾するなど生々しい傷跡に驚いた」と当時の記憶をよみがえらせる。

 空襲の危険が残る中、物資輸送という重要任務を背負って再出港。前年3月に函館商船学校を卒業したばかりの17歳の新米乗務員は、まだ命の重みを実感していなかった。予想通りの米機襲来に「自分は軍人ではなかったが、砲弾の玉運びなどを行った。すぐそばを機銃掃射の玉がかすめ、甲板に穴が空いていった」と恐怖の時間を振り返る。

 このままでは確実に沈没させられると判断した船長は、船の機能が停止したことを装って七重浜に避難。「死んだふり作戦で、息をひそめて米軍機が飛び去るのを待つしかなかった。間近で日本軍の艦船が爆撃を受け、船体の中心から二つに折れて沈んでいくのが見えたのが今でもくっきりと映像として残っている」

 九死に一生を得たものの、多くの仲間を失ったショックは大きかった。「いずれ自分も戦争の中で確実に命を落とす」と悟った青年は、8月上旬に生まれ故郷の日高町に一時帰郷。その間に広島、長崎に新型爆弾が落とされたことを知る。「青函連絡船が壊滅しても函館は重要な軍事拠点。次は函館が標的になるのでは」と危険を察知しながらも、函館に戻る道を選んだ。「これが母親との最後の別れになるかもしれないと思ったが、互いに特別な言葉をかけることはなかった。今にして思えば(母親は)身を切られるような思いだったに違いない」と回想する。

 その数日後に敗戦の報が届く。「日本はこの先どうなるのだろう」という心配をよそに順調に復興を遂げ、青函連絡船も次々に新造され航路のにぎわいも戻った。その矢先、さらなる不幸が襲う。1954年9月26日の洞爺丸台風事故。5隻が沈没し、合わせて1400人以上の犠牲者を出す大惨事だった。この時も第八青函丸に函館から乗り込んだが「出航直前に高波で船体が激しく揺れたため、そのまま函館港に停泊させて岸壁に衝突しないように一晩中エンジンを動かし続けた」。

 2度も生死の舞台となった連絡船が廃止されて22年。連絡船とともに、戦争や台風被害も人々の記憶から薄れ始めている中、町会などで戦争体験の講演会を積極的に行う。「日本は今、表面上は平和な世の中だが、人の心がすさんでいる気がしてならない。戦争の愚かさを知ってもらうことで命の大切さを認識してもらえれば」と訴える。(小川俊之)



◎バイク武者 勇ましく…松前城下時代まつりでパレード

 【松前】「第27回松前城下時代まつり」(松前観光協会主催)が13日開幕し、恒例のバイク武者軍団パレードが行われた。バイクを騎馬に見たて、甲冑(かっちゅう)を着込み、勇ましい武者姿で町内をさっそうと走り、交通安全を呼び掛けた。

 今年は道内を中心に全国各地から26人のライダーが参加。松前藩屋敷で行われた出陣式で、総大将役のライダーが交通安全の宣言文を読み上げた後、全員で「エイ、エイ、オー」と気勢を上げ、一斉にスタート。隊列を組み町内をぐるっと一周し、沿道の住民らは盛んに「頑張って」などと声を掛けていた。

 唯一の女性となった札幌市の会社員、佐藤理恵さん(28)は「珍しいイベントなのでぜひ参加したかった。甲冑を着ると暑いが、一番目立つように走りたい」と笑顔で話していた。

 また、この日は城下通りが歩行者天国となり、沿道に出店が並び大勢の町民らでにぎわった。もちまきや古城太鼓などが披露され、祭りの雰囲気を盛り上げた。

 同まつりは15日まで。14日は午後1時から山車運行、同6時半から役場前の特設広場で盆踊りとビアガーデンを開く。15日は仮装盆踊りを予定している。(松宮一郎)