2011年3月21日 (月) 掲載

◎被災地へ善意届け 支援物資 函館を出発

 東日本大震災の被災地に届ける支援物資の搬送が20日、函館市内で相次いで行われた。全道・全国から集まった支援物資はフェリーで青森に運ばれ、トラックで東北各地に届けられる。

 道が窓口となり、市町村や企業団体から寄せられた食料や毛布、生活用品などの支援物資はトラック17台分になった。同日午後、津軽海峡フェリーの「ナッチャンWorld」に乗せ、函館ターミナルから出発。関係者によると現地の情報はまだ少ないといい「行ってみないことには、見えてこない部分が多いが、21日以降には物資を被災地に届けられるはず」と話す。今回は道職員10人も同行。物資の受け渡しのほか、現地の情報収集に取り組むという。

 この日は多田健一郎副知事が見送りに訪れ、トラックドライバーや現地に向かう道職員に「安全に気をつけて物資を運び、道民の気持ちを伝えてください。道が今後どのような支援を行っていくか考えるためにも、現地の声に耳を傾けて情報収集に努めてほしい」と激励した。

 一方、函館港豊川ふ頭には神戸税関の監視船「おき」と、東京税関の監視船「つばさ」が、東京や名古屋、大阪の税関が保有する災害用物資約3.5トンを積載して入港。用意していたトラック2台に物資を積みかえた。21日早朝、青函フェリーで出発する。津波の被害で被災地の港がダメージを受けていることから、函館から船で青森に入り、陸路で岩手県方面に向かうという。

 函館税関の安川公寿さんは「現地の状況を見ながら岩手県釜石方面を目指す。今後、東北災害対策本部や海上保安庁と連携を取りながら、支援を進めていきたい」と話していた。(堀内法子)



◎振る舞い鍋で心身温かく 大門横丁でイベント

 豚汁で身も心も温かく―。函館市松風町7の大門横丁で20日夕、「大門夢とん汁」を来場者に無料で振る舞う「大門横丁振る舞い鍋」が行われた。東日本大震災の被災者を支援する募金箱も設置され、同横丁を訪れた人は募金をし、笑顔であつあつの豚汁を口に運んでいた。

 同横丁を運営するはこだてティーエムオーと、テナントでつくる大門ハイカラクラブの主催。北海道ラボラトリー・八百屋夢八の協力を得て、ニンジンやジャガイモ、ネギなど新鮮な野菜をふんだんに使った豚汁150食が用意されたほか、豚汁のレシピ、野菜の販売などが行われた。

 震災により開催が危ぶまれたが、「身近な市民に元気と笑顔を届けることが一番」と開催を決定。午後5時に八百屋夢八のスタッフ2人が振る舞い始めると続々と人が集まり、おいしそうなにおいと湯気が立ち上る中で受け取っていた。

 鍋の横には東日本大震災義援金を募る募金箱が置かれ、集まった人々は善意を寄せていた。市内在住の無職、宮下誠さん(76)は「震災の支援もでき、おいしい鍋も口にすることができて、心がほっこりします」と笑顔で話していた。(黒田 寛)



◎あいす118 今季開業開始

 函館酪農公社の直営店「あいす118」(函館市中野町118、駒井貞二店長)が20日、今季の営業を始めた。東日本大震災の被災地支援として、初日と21日の2日間をチャリティーデーとし、売上金を全額寄付する。駒井店長は「少しでも被災地の力になれば」と話している。

 今季の開店は例年通りで、当初、オープニングイベントを行う予定でいたが、大震災が発生したことから取りやめた。2日間のチャリティーデーでは、売上金の寄付のほかに、店頭に募金箱を置き、募金した人には特製スープを無料サービスする。

 この日は好天に恵まれ、午前9時の開場とともに家族連れらが続々と来場し、人気の牛乳ソフトクリームやプリンなどを味わった。  このほか、22日まで特別メニューとして専用のオーブンで焼いた「マリボーチーズ焼き」を200円で販売していてこちらも客足を誘っていた。

 母親や親戚と来店した石岡夏鈴ちゃん(5)は「焼いたチーズがおいしかった」と話していた。

 今季は11月30日まで営業する予定。(鈴木 潤)


◎函館大火 風化させてはならない きょう77年

 吹き荒れる強風、広がる猛火―。まちの3分の1を焼き尽くし、2100人超の死者を出した「函館大火」から、21日で77年を迎える。当時春日町(現青柳町)で被災した信太(しだ)政さん(82)は、この時期になると悪夢がよみがえる。「二度と体験したくない。風化させてはならない」―。

 信太さん一家が異変に気付いたのは、強風で吹き飛ぶ屋根が窓から見えた時だった。1934(昭和9)年、3月21日午後7時前。様子見へと付近の高台へ駆けた父がなかなか戻って来なかった。母、姉、兄の3人と家を出る。みぞれの降る闇夜には、住吉町方向から燃え盛る真っ赤な炎が浮かび上がっていた。母が叫んだ。「逃げろ」

 迫りくる熱風と火の粉を背に、火の海の中を必死で走った。向かうは大町に住む叔母の家。護国神社、二十間坂、そして市電通りへ。途中、見下ろした函館の街並みは阿鼻(あび)叫喚のちまたと化していた。地獄だった。

 姉が背負う風呂敷に火が付いた。消火に追われながら、なおも大町方向へと駆ける。大勢の住民が避難する中、午後8時過ぎに叔母の家にたどり着いた。やがて父もやって来た。一家は無事だったが、わずか1時間の間に見た光景が信じられなかった。

 大火は翌朝に鎮火。岸辺から望む大森町、住吉町はがれきの山で、所々白い煙が上がっていた。まちは、家族は、暮らしは―。当時小学1年生。歳月が流れても、あの夜まちをなめつくした猛火と烈風は一生忘れられない。

 3月21日。被災者が眠る寺院で、今年も静かに手を合わせる。(長内 健)