2011年3月22日 (火) 掲載

◎函館大火78回忌慰霊法要

 1934年(昭和9年)の「函館大火」から78年目となる21日、函館市大森町の函館大火慰霊堂で函館大火殉難者78回忌慰霊法要(函館市仏教会主催)が執り行われた。会場には東日本大震災の義援金を募る募金箱も設置され、参加者は歴史的な惨事への追悼の想いを胸に、悲劇を繰り返さないよう、大火の犠牲者の冥福を祈った。

 函館大火は1934年3月21日午後6時53分に市内住吉町から出火。風速30メートル以上の激しい風に乗って炎はまたたく間に広がり、当時の市内の3分1を焼き尽くした。翌22日の午前6時ごろに鎮火したが、街は死者2166人、行方不明者679、負傷者9485人、被害世帯2万2667世帯という甚大な被害を被った。

 慰霊法要には、犠牲者の遺族や大火の経験者、市職員ら73人が参列。市仏教会の僧侶が読経する中、焼香し、犠牲者へ鎮魂の祈りを捧げた。

 大火の当時9歳で大森町に住んでいた石川町在住の大沼美子さん(86)は「炎の中を両親と兄、姉の5人で逃げたが新川橋付近で兄と姉と離れてしまい、後で亡くなったことを知った。あの時の光景は今も忘れられない」と話し、「東日本大震災の報道をテレビでみていると当時と重なる部分もある」としんみりとした口調で語った。

 法要終了後に実施予定だった大火を想定した防災訓練は、東日本大震災の影響により自粛された。(黒田 寛)



◎東日本大震災、海員組合支部に物資次々

 函館港から東日本大震災の被災地へイカ釣り漁船で支援物資を海上輸送することを決めた全日本海員組合(東京)の道南支部(函館市末広町、若松信弘支部長)に、道内から寄付された物資が次々と寄せられている。21日までに数百件の個人・団体から「1隻分の容積を超える量」(同支部)が届けられ、職員らは荷さばきや市民からの問い合わせに追われている。

 同支部によると、一般からの受け入れを開始した20日から2日間で物資は30〜40トン分に達したという。飲料水やカップめん、米、ジャガイモ、紙おむつ、トイレットペーパー、電池…。職員らは同支部事務所前に箱詰めされた物資を手分けして倉庫に運んでいた。

 遠くは北見市からトラックで持ち込まれた物資もあり、同組合北海道地方支部の佐藤康博支部長は「人間の温かさが心底伝わる。われわれが運ぶのは物資はもちろん、被災者のために何かしたい、と思う多くの方々の気持ち」と語る。中には物資の仕分けの手伝いを名乗り出た市民もいたという。

 21日にはチャーターした漁船に物資を積み込む予定だったが、予想を大幅に超える寄付があったため、予定を1日繰り下げた。初便は23日午前10時に出港予定で、物資の量に応じて順次往復する。支援物資は東北地方の各港で待機する各支部を通じて被災した宮城県気仙沼市や岩手県宮古市などに届けられる。

 募集するのは常温保存できる食料品、飲料、衛生用品、毛布の4種類が対象。箱に入れた状態で受け付ける。郵送する場合は〒041・0824 函館市西桔梗町863の1、カネス杉沢事業所へ(送料は自己負担)。持ち込む場合は同市末広町23の7、全日本海員組合道南支部へ。問い合わせ先は同支部TEL0138・22・8128。(森健太郎)



◎市民オペラ、今年はコンサートのみ

 函館市民オペラの会(会長・金山正智市文化・スポーツ振興財団理事長)の2011年総会が11日、市梁川町のホテルテトラで開かれ、新年度の事業計画案を協議した。財政難から今年は定期公演を休止し、オーケストラ付きのオペラ・コンサートを11月2日に市内で開くことを決めた。定期公演の休止は09年に続き2回目で、同会は「再び今年を充電期間にし、来年の本公演再開にこぎ着けられれば」としている。

 休止は、公演の収入減が響き、フルセット・フルオーケストラの開催が難しくなったため。09年度は若手音楽家の育成とオペラの普及を目的に、函館と七飯で小規模公演を開催。この収入をもとに、昨年11月「リゴレット」本公演を開いた。

 今年はオペラ・コンサートのみ。09年7月に市芸術ホールで開いたガラコンサート同様に、「コシ・ファン・トゥッテ」(モーツァルト)「カルメン」(ビゼー)「椿姫」(ヴェルディ)など、同会が過去に上演してきた人気オペラのアリアや重唱、合唱をメーンにした演奏会を開く計画。

 今後、同会のワーキンググループを中心に、選曲や出演者の人選を決める。夏以降には、合唱の一般参加者を公募する予定。(長内 健)


◎東日本大震災、集落再建に南西沖地震の教訓生かして

 【江差】北海道南西沖地震や有珠山噴火の被災地では、将来にわたり被災の可能性が低い安全な地域に集落を移す、防災集団移転が行われた。今回の東日本大震災では、宮城県や岩手県の沿岸地域が壊滅的な被害を受けたが、集落再建にはこうした教訓を生かして欲しいとの声が上がっている。

 1993年の北海道南西沖地震では、奥尻町の青苗地区が大津波と火災で壊滅的な被害を受けた。こうした地域では、住宅などの再建を行わず、安全な高台に集落を移転。市街地の前面には、防潮堤や水門を建設したり、3〜6メートルの盛土で地盤のかさ上げを行うなどの恒久対策を講じた。

 北海道東北6県町村会協議会長も務める、寺島光一郎乙部町長は、東北地方の被災地復興を視野に「奥尻町のケースを参考に、壊滅的被害があった市街地は、高台など安全地域に移転ができるよう、政府が早急に財源や立法措置を講じるべきだ」と訴える。

 2000年の有珠山噴火では、市街地から約1キロの距離で噴火が発生した洞爺湖温泉地区の住宅街が、噴石や熱泥流で大きな被害を受けた。道を中心に、将来の噴火に伴う危険度予測をもとにA〜Cまでの3ゾーンを設定。最も被害が大きいAゾーンは、市街地の復旧を行わず、Bゾーンは、将来の噴火に伴う危険性を考慮して、病院、学校、保育所などの公共移設や一般住宅などを、安全な地域に再建し、跡地には砂防ダムなどの防災施設が整備された。

 被害が軽微だったCゾーンでは、20〜50年周期とされる噴火に備えて、住宅などの新築を規制し、既存の住宅についても、中長期的に移転を促すことが検討されたが、住民の反対や財源問題から、実現は見送られた。当時の道庁関係者は「震災を契機に災害の危険性がある住宅などをあらかじめ移転させる、減災対策を再考すべきだ」とする。

 東日本大震災では、波高や衝撃力など、設計時の想定を大幅に超える巨大な津波に襲われ、防潮堤や締め切り水門などが機能を果たさなかった。北海道南西沖地震をはじめ、何度も大津波に襲われた桧山沿岸では「自然災害は人智を超える。防波堤などハード面だけの整備には限界があることを実感した」(ある町幹部)との声も上がる。

 少子高齢化が進む桧山沿岸では、人口減少により、コミュニティーの維持が困難となる限界集落≠ェ広い範囲に点在する。上ノ国町の沿岸では、南西沖地震を契機に、11カ所の津波避難路が整備されたが、住民からは「若者が減り、冬季の除雪など維持管理が難しい」との声も。地域の高齢者は「災害時に高齢者だけで速やかに避難ができるか不安」と漏らす。管内の行政関係者は「東北関東大震災を受けて、過疎地域の集落再編や集団移転といった、国土のあるべき姿を抜本的に見直す議論が必要な段階に入ったのではないか」と指摘する。(松浦 純)


◎若者対象に歴史散歩の会、町の魅力を再認識

 西部地区を歩きながら町の歴史を学ぶ「箱館歴史散歩の会」を主宰する中尾仁彦さんが、高校、大学生などを対象にした「第54回箱館歴史散歩の会〜もう一度西部の町並みを歩いてみませんか」が19日、市内西部地区で開かれた。高校生から一般まで15人が参加し、中尾さんが函館発祥のものなどを紹介しながら散策した。

 同会は、毎月1、2回のペースで一般を対象に開き、西部地区に古くから残る建物や碑を歩いて巡る(冬は講座のみ)。今回は、この春に進学や就職で函館を離れる人に、あらためて和洋折衷の建物などが残る西部地区を見て回り、函館の良さを知り、新天地で広めてもらおうと初開催した。

 冷たい風が吹く中、北海道最初の造船所(高田屋嘉兵衛資料館)、日本最古のコンクリート製の電柱などを約2時間半かけて回った。二十間坂などでは大火にまつわる話を交え「この周辺は何度も大火に見舞われたが、人や町はその度に強くなりながら復興してきた」と話し、参加者は熱心にメモを取って聞き入っていた。

 中尾さんは「寒かったが、皆さん一生懸命聞いてくれ、郷土を知る人の底辺拡大になったと思う。5月には新しく函館に来た人を対象に開いてみたい」と話していた。(山崎純一)