2011年5月23日 (月) 掲載

◎大間原発建設断念訴え250人 過去最多参加の現地集会

 【大間】青森県大間町で電源開発(東京)が建設中の大間原発をめぐり「第4回大間原発反対現地集会」(実行委主催)が22日、同原発敷地内、炉心予定地に近接する「あさこはうす」で開かれた。福島第1原発事故後、現地で反対集会が開かれたのは初めて。函館からの約50人を含む過去最多の約250人が参加。原発の安全神話は崩れたとし「3・11フクシマを繰り返してはならない」と建設断念を強く訴えた。

 核燃料廃棄物搬入阻止実行委、ストップ大間原発道南の会、PEACELANDが呼び掛け、函館の市民団体「大間原発訴訟の会」(竹田とし子代表、170人)が協賛した。集会は2008年から毎年開いている。

 主催者を代表し澤口進さん(核燃料廃棄物搬入阻止実行委)のあいさつの後、大場一雄さん(ストップ大間原発道南の会)が同原発建設差し止め訴訟の経過などを報告。トークに登壇した、地権者の故熊谷あさ子さんの長女小笠原厚子さん(56)=北斗市在住=は、母が原発反対を貫き最後まで売らなかった土地を死守すると強調した。

 竹田代表ら11人が各地の活動を報告。竹田代表は「原告は一人ひとりの思いを言葉にのせて裁判長に訴えている。人間味のある判決を求めたい」と述べた。最後に「あさこはうすの土地から大間原発をとめ、六ヶ所村の再処理工場をはじめ全国の原発や核関連施設を廃止するために協力して行動する」との集会アピールを採択した。

 また、21、22両日、同所で4回目となる野外ライブ「大マグロック」も行われた。(山崎大和)



◎企画「命を見つめて 第2部糖尿病編B」各病院 療養指導に力

 糖尿病は自覚症状がなく進行し、放置すれば全身のさまざまな器官をむしばむ。薬による治療のほかに、日常生活で自ら血糖をコントロールする自己管理を続けなければならない。

 その知識を習得させる療養指導は治療と並び重要で、医師や看護師、管理栄養士、薬剤師らがチームをつくりそれぞれ専門的な視点で患者を指導するのが主流だ。

 函館市医師会病院(富岡町)の廣田則彦内分泌科長は「糖尿病治療は始めが肝心。早期診断早期介入が悪化を防ぐポイント」と話す。同病院は毎月延べ2000人の患者が外来で受診。教育入院を実施していて、患者の症状に応じて3日、7日、14日の入院コースを設けている。期間中、食事指導や運動指導のほか、精密検査も行う。「教育入院は糖尿病と向き合う動機付けの場。入院によって検査の数値も改善され、退院後、悪化するリスクも低くなる」と話す。

 稜北内科・小児科クリニック(中道)では、療養指導のほか、通院患者でつくるグループ「ひまわり会」の活動が盛ん。定期的に交流行事を行い、闘病者同士で教え合う場も見られ、運営担当の尾崎万紀子管理栄養士は「医療従事者と違った視点の患者の体験談は時には説得力があり、聞く側も励みにつながる」と話す。

 近年、個人の生活環境が多様化し、患者の状態に応じたきめ細かな指導も求められ、同クリニックの糖尿病専門医、内山清医師は「家計の事情で十分な食生活を送れない患者もいる。病状とともに患者の生活実態や家族構成、人格とトータルで見ていく必要がある」と話す。

 国立病院機構函館病院(川原町)では、昨年5月から栄養指導の一環として糖尿病勉強会「クロッカス」を毎月1回始めた。食品交換表に基づいた栄養指導をはじめ、医師や薬剤師らの講話もあり、バイキング形式の食事会などユニークな取り組みも行う。

 食事療法では、カロリーを気にした食事を苦痛に感じ、挫折するケースもあり、同病院栄養管理室の木幡恵子室長は「食事の取り方を楽しく学んでもらえるよう工夫している」と話す。

 函館五稜郭病院(五稜郭町)では、道南でただ1人、糖尿病看護認定看護師資格を持つ斎藤幹子看護師主任が療養指導の中心的な役割を担う。別の疾患で受診し、糖尿病も併発している患者が多く、主治医や管理栄養士と連携、調整しながら対応する。斎藤主任は「生活をどうすれば改善できるのか、その糸口を一緒に考え支援していきたい」と話す。(医療問題取材班)

 ◆食品交換表=糖尿病の食事療法で活用。食品を栄養素などによって6つのグループ(表)に分け、1単位80`iとして表示している。患者ごとに定められた1日の摂取iに応じて食品を選ぶ。表1は主に糖質を含む食品、表2が果物、表3が主にたんぱく質を含む食品(肉、魚、卵)、表4がチーズを除く乳製品、表5が主に脂肪を含む食品、表6が主にビタミン、ミネラルを含むとなっている。



◎知内で日本初ベトナム銭「開泰元寳」が出土 涌元古銭から発見

 函館高専の埋蔵文化財研究会が調査を行っていた涌元古銭から、ベトナム・陳朝の「開泰元寳」(かいたいげんぽう、1324年)が確認された。同研究会顧問の中村和之教授(日本史、アジア史)によると、国内で「開泰元寳」の出土例は初めてで、関係者らは驚きと喜びに沸いている。

 涌元古銭は1951年(52年の説も)、知内町涌元地区にある私有地の道路工事の際に出土し、現在は997枚が残っている。

 同研究会は、和紙に文字を写し取る拓本(たくほん)を作っては古銭を読み取り、成分の分析や、同じく道南で出土した志海苔古銭との比較などを行ってきた。今回発見した「開泰元寳」は、最初泰≠フ文字が読み取れず、保留にしてあったという。

 中村教授(副校長)によると、古銭の文字列は上から時計回りに読む順読≠ニ、上下右左に読む対読≠ェある。そのため「開○元寳」と「開元○寳」の2通りが考えらた。資料により12の候補があげられたが、「開泰元寳」の日本での出土例がなかったことから、結論を出さないまま、ほかの古銭の調査を行っていたという。

 5月15日、同じく顧問の高橋直樹准教授らが未読の古銭があったことを思い出した。改めて資料と照らし合わせ「開泰元寳」ではないかという結論を出し、考古学の権威である下関市立大の桜木晋一教授と、中国考古学からアジア銭を研究している専修大学の三宅俊彦講師に拓本や写真データなどを送信。すぐに両者から「間違いなく開泰元寳である」との返事が返ってきた。加えて日本初の出土であることも認められた。

 前例がない分、他との比較ができず、歴史的に考えてもなぜ道南で見つかったのかという疑問がある。これについて中村教授は「室町時代に日本に来た南蛮船が、港に立ち寄った際に使ったものでは。ルートとしては日本海側を津軽の十三湊などを経由して北上したと思う。埋めたのは15世紀と考えられる。お金の埋葬は備蓄銭である場合が多い。1457年には渡島半島でアイヌと和人によるコシャマインの戦いがあった。もしかしたら、それも関係があるかもしれない」と推測。「歴時学的に考えても、あまりに想定外。正直、まだわからないことも多いが、古銭から見える歴史にロマンを感じる」と語った。

 また、22日に同研究会が拓本を取っていたところ、同じくベトナムの「景統通寳」(けいとうつうほう、1498年)が新たに見つかった。これまで涌元古銭では中国・明の「宣徳通寳」(せんとくつうほう、1433年)が最新とされていたため、埋蔵年が大幅に更新。部員らは「これまで発見していたものより65年も新しい。大きな発見が2度も続くなんて」と驚きの表情だった。(堀内法子)


◎箱館五稜郭祭 迫力の維新行列

 第42回箱館五稜郭祭(同協賛会主催)は最終日の22日、音楽パレードやメーンイベントの「維新行列」が行われた。函館市本町の行啓通では、榎本武揚軍と明治新政府軍が入り乱れての白兵戦を再現。沿道に詰め掛けた見物客は迫力のある戦闘シーンに見入っていた。

 午後1時に、地元の中学・高校などのブラスバンドチームによる音楽パレードが千代台公園を出発。陣羽織や軍服に身を包んだ両軍兵士約500人による維新行列が、中島町廉売通から電車通に沿って歩を進め、榎本軍の開陽丸などの模型には工藤寿樹函館市長らが乗り込み、沿道の市民らに手を振った。

 行啓通に到着した両軍は、大砲のごう音を響かせたのを合図に白兵戦を開始。刀を振りかざしながら繰り広げられる演技は迫力満点。新選組副長の土方歳三が最期を迎えたシーンでは、ひときわ大きな拍手が起こっていた。

 その後、五稜郭公園に移動し、榎本軍が降伏し、五稜郭を官軍に引き渡す模様を再現する「開城セレモニー」を実施。榎本武揚が黒田清隆に「海律全書」を渡すシーンに続き、祝砲が打ち鳴らされた。最後に歌謡ショーやもちまきが行われ、2日間の日程を終えて閉幕した。(山崎純一)