2013年8月15日 (木) 掲載

◎横浜の大学生優勝 乙部でビーチクイーンコンテスト

 【乙部】道内唯一の水着コンテストが14日、元和台海浜公園で行われ、今年も盛り上がった。

 元和台海のプールまつり(元和台海浜公園出店組合主催)の目玉で、高校生以上の女性5人が出場し、自己紹介と乙部との関わり、特技や決めポーズなどで大勢を魅了した。

 優勝は横浜市在住の文京学院大4年の金(こん)亜莉沙さん(22)。「ももクロのダンスを踊ります」と満面の笑みでステージに立ち、大きな拍手を受けた。賞金2万円を手に「乙部の親戚の子どもたちにおいしいものを食べさせてあげたい。来年もこのコンテストに出たい」と声を弾ませていた。

 参加者全員に乙部の特産品が手渡され、終始和やかな雰囲気に包まれた。このほか、水産物の手づかみもあり、子どもらの歓声が響いた。 (田中陽介)



◎月下美人 かれんに

 【七飯】町鳴川の土田恭治さん(86)宅で13日夜、夜に咲き始め翌朝までの一晩でしぼんでしまうことで知られる月下美人が花を咲かせた。

 月下美人はメキシコの熱帯雨林地帯を原産地とするサボテン科の多肉植物。高さは約50a〜2bで、花の大きさは約20〜25a。土田さんは約30年前に神奈川県鎌倉市の親戚から譲り受けた月下美人を育て、今年は6月に4輪、今月12日にも2輪咲かせた。

 この日は、玄関先で午後9時ごろから花のつぼみが開き始めた。同10時ごろには純白の美しい15輪が満開になり、同時に甘い香りが周囲を包んだ。

 昨年は10月に花を咲かせたといい、土田さんは「甘い香りがいい。秋にまた花を咲かせてほしい」と話していた。(柏渕祐二)



◎函館新道 函館—七飯本町IC4車線化へ

 函館新道の函館インターチェンジ(IC、函館市桔梗町)—七飯本町IC間の2車線道路(片側1車線)が4車線化される。事業費は約10億円で、国の2012年度補正予算に計上された。函館開発建設部が15日から工事に着手し、渋滞緩和などが期待される。

 同新道の自動車専用道路部分は函館IC—七飯藤城IC間の11`だが、4車線部分は途中のIC周辺区間に限られ、ほとんどが片側1車線となっている。特に七飯本町ICから函館側は、速度の遅い車両を追い越せず、交通渋滞の原因となっていた。

 今回の工事で、函館IC—七飯本町IC間(約6・6`)の2車線部分約4・9`のうち3・6`を4車線化する。同区間は一部2車線部分が残るが、大半が4車線道路となる。工期は来年3月19日まで。

 同部は「交通渋滞の緩和のほか、交通事故防止や緊急車両の円滑な通行にもつながり、災害発生時の有効な避難道としても機能する」と整備効果を挙げる。

 すでに用地はあり、現道路に並行して舗装工事をしていく。工事期間中も同区間の車両通行は可能で、大掛かりな交通規制を極力避けながら工事を進めていく予定だ。  (鈴木 潤)


◎「共存共栄できる」 駒井さん3度目の北方墓参

 択捉島(えとろふとう)水産会代表管理役で、北方領土の返還運動に長年携わってきた函館市の駒井惇助さん(79)がこのほど、3度目の北方墓参で択捉島を訪れた。駒井さんは「ロシア人は日本人の風習を厳粛な態度で見守っていた。共存共栄はできる」と話し、領土返還への思いを強くしている。きょう15日は68回目の終戦記念日。

 駒井さんは、曾祖父が幕末に択捉島に渡り、明治政府から漁場の払い下げを受けた。終戦時は弥生小学校6年生で、4島に住んだ経験はないが、開拓者の血を引く“島民”だ。北方墓参は15年ぶりで、ビザなし交流にも2回参加している。

 北方墓参は道主催で、択捉島には遺族32人が参加し7月29〜31日の日程で行われた。道の漁業取締船「北王丸」で根室を出港し、択捉島の内岡(なよか)に入港。曾祖父の弟の墓がある年萌(としもえ)などを訪れた。

 戦後68年を迎え、墓標も墓石も見当たらなかったが、花輪や祭壇を設置して慰霊祭を執り行った。日本の伝統的な風習を見守るロシア人の姿が感銘的だったという。「これまでの墓参では、ロシア人は私語を交えたり姿勢を崩して見ていたが、今回は厳粛な態度で見守り、日本人に敬意を払っていた」と駒井さん。

 墓参後はロシアの受け入れ団体が、予定になかった昼食会を企画。その厚意に墓参団は驚き、ロシア側の友好を感じた。真珠湾攻撃で連合艦隊の出撃港となった単冠湾(ひとかっぷわん)の沿岸で、スープやイクラ、焼き肉、ウオツカなどの飲食を囲んだという。

 一方、北方領土を実効支配するロシアは、4島で港湾や空港、道路などのインフラ整備を進めている。ただ、駒井さんが見た択捉島では、はしけで入港した内岡周辺の開発が目についた程度という。韓国企業が建設したと伝えられる桟橋があり、水産と建設の企業ギドロストロイの社員寮、海事関係の合同庁舎などがあったが、「にぎわいは感じられなかった」。

 内陸部の開発は、見た限りでは進んでいなかったといい、手つかずの自然が残されたまま。砂利道を延々と進み、単冠湾近くの天寧(てんねい)にある旧日本軍の飛行場跡地には、ロシアの戦闘機の残骸が残っていた。

 広大な島と、残された大自然を目に「島で漁場の親方(網元)をしていた自分の家のルーツをしみじみと感じた」と駒井さん。15年前と比べ、ロシア人の友好と誠実さを特に感じたと回想し、語った。「4島返還の道のりは厳しいが、島民は日本人と共住することには賛成するのではないかと思った」−。  (高柳 謙)