2014年8月10日 (日) 掲載

◎山車勇壮に江差巡る 姥神大神宮渡御祭開幕

 【江差】道内最古の祭礼として370年余りの伝統を誇る、姥神大神宮渡御祭が9日、町内一円で始まった。10、11日は大神宮のみこし行列に13台の山車(やま)が付き従い、町内を巡行する。

 祭りをこよなく愛する住民が今年も念入りに準備した。初日は早朝から青空が広がり、魂入れ後の山車が笛や太鼓の祭りばやしに合わせて地元を練り歩いた。

 愛宕町の神功山(人形・神功皇后)と愛宕山(人形・火の神様)の合併60周年に合わせて、神功山の山車に愛宕山の火の神様をこの日限定で飾った。夜には縁深い4祭神が山車の上で60年ぶりの再会を果たし、住民も結束を深めた。

 神功山頭取の吉田豊さん(58)は「感無量。(火の神様を知る)年配者が涙を流して喜んでいるのを見て本当にうれしい」。札幌市の布施彩夏さん(10)、春奈さん(9)姉妹は両親と一緒に参加し「初めて山車の縄を握った。引くと少し重くて大変だけども雰囲気が楽しい」と声を弾ませていた。

 本祭の10日は、午後0時半ごろから「下町巡行(したまちじゅんこう)」。いにしえ街道を巡り、同8時ごろには愛宕町商店街に山車が並ぶ。同10時からは大神宮で、巡行を終えたみこしを拝殿に納める「宿入之儀(しゅくいれのぎ)」を行う。

 最終日の11日は午前11時20分から「上町巡行(うえまちじゅんこう)」。海岸沿いから市街地に入り、午後9時ごろには山車が新地町の繁華街に集結、3日間の祭礼の熱気は最高潮を迎える。台風の影響でスケジュール変更の場合がある。(田中陽介)



◎長崎原爆の日 恒久平和祈る 七飯の景雲寺で追悼の鐘

 【七飯】長崎原爆の日の9日、町大沼の景雲寺(鈴木公英住職)で「平和追悼の鐘」をつく行事が行われた。原爆が投下された午前11時2分に合わせて、町内の幼児や地域住民ら約50人が鐘をつき、犠牲者の冥福と恒久平和を祈った。

 鐘は戦時中、武器製造のため供出されたが、国には渡らず、町内の火の見やぐらで活用された。2007年に七飯消防署内で見つかり、同寺に返還され、新たに「平和追悼の鐘」と命名。09年から毎年、原爆投下の日に合わせて鳴鐘行事を行っている。

 この日は、認定こども園どんぐり(大川)と七飯ほんちょう保育園(本町)の園児が参加。原爆が投下された時刻になると、園児は順番に鐘を2回鳴らした。

 その後、この行事を主催する護持会の三箇俊昭会長が、園児に鐘の由来を説明。鈴木住職が戦争について話し、「もし友達とけんかになった時はごめんなさいと言えるようになってください」と呼び掛けた。

 三箇会長は「こうした人同士の触れ合いを通じて平和の大切さを伝えていきたい」と述べ、ほんちょう保育園の澤田百叶ちゃん(5)は「上手に鐘を鳴らせた。戦争になってほしくない」と話していた。(鈴木 潤)



◎最後のSL$X駅にぎわう 函館大沼号 駒ケ岳周遊を満喫

 JR北海道が運行する人気観光列車「SL函館大沼号」(函館—森間、1日1往復)夏季運転は10日で終了する。同社予約センターによると、指定席(全席)は往復とも満席となっている。9日も森駅は、乗車してきた家族連れなど大勢でにぎわった。

 同社は7月、蒸気機関車(SL)に自動列車停止装置(ATS)が未設置であることなどの理由で、同列車のほか「SLニセコ号」(札幌—蘭越間)、「SLはこだてクリスマスファンタジー号」(函館—大沼公園間)を本年度限りで廃止する方針を示した。冬の「クリスマスファンタジー号」は大沼公園までの運転のため、駒ケ岳を周遊するのは今夏が最後になる可能性がある。これまでの春や夏は大沼公園駅で下車する人が多かったが、森駅の警備員によると、今夏は森駅まで来る人が増えているという。

 9日の森駅は到着後、SLの前で記念撮影する人が多く見られた。岩手県花巻市の会社員、後藤友紀さん(31)は家族計4人で乗車。「車内で隣の人から廃止の方針と聞いて驚いた。夏休みの旅行で取り入れて良かった」と話していた。(山崎純一)


◎朝鮮人犠牲者の冥福祈る 船見町で慰霊祭

 第24回函館朝鮮人慰霊祭(朝鮮総連函館支部主催)が9日、函館市船見町の函館朝鮮人慰霊塔で開かれた。参加者は、読経と焼香などで犠牲者の冥福を祈った。

 強制労働のため北海道に連行され、過酷な労働や事故などで犠牲になった朝鮮人を毎年追悼している。慰霊塔と納骨堂は1990年に建立。納骨堂には戦時中に旧国鉄・松前線建設工事に従事し犠牲になった6人と、終戦後から現在まで故郷に帰れずに亡くなった17人の遺骨が納められている。

 この日は、道南在住の在日朝鮮人ら関係者25人が出席。朝鮮語の読経が響く中、一人ずつ焼香した。その後は親睦会が開かれ、出席者は新睦を深めた。

 同支部の李紅培(りほんべ)委員長(41)は「労働や病気などで亡くなるも、歴史事実の真相究明はされないまま。なぜ亡くなったのかを考えると無念さを感じる。今後も慰霊祭を続けていきたい」と話していた。(平尾美陽子)