2014年9月25日 (木) 掲載

◎「法王を新幹線一番列車に」…「ローマへの道」実行委・小山内仁さんバチカンへ

 【北斗】2016年3月の北海道新幹線開業に合わせて、「ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇に、1番列車に乗車し、トラピスト大修道院(北斗市三ツ石)に来訪してもらおう」という企画を、市内石別地域のイベント「ローマへの道」実行委員会が立案した。実行委事務局長で、北斗石別中学校教頭の小山内仁さん(46)が、在バチカン日本国特命全権大使に企画書を提出するため、24日夜、函館空港をたった。

 石別地域では修道院に続く並木道を「ローマへの道」と名付け12年から夏と冬に音楽パレードやキャンドルを並べるイベントを開催している。

 同年4月に同中学校に赴任した小山内さんは並木道を初めて見た時、「ここは聖地。ローマへ通じる道」と確信し、地域住民とともに修道院を核とした地域振興に力を尽くしてきた。

 活動3年目の集大成として今回の企画を提案。8月下旬、外務省を通じてローマ法王庁大使館(東京)を訪問。対応した臨時代理大使が関心を示し、バチカンの全権大使との面会を取り次いでくれたという。

 市のふるさと親善大使として高谷寿峰市長の推薦書と企画書を持参し、バチカンに向かった。企画書には「教皇にご来道を賜ることで、トラピストへ通じる道が聖地として、恒久的平和の象徴となる布石としたい」と記し、小山内さんは「わずかな可能性を信じて実行した。記憶に少しでも留めていただけるよう、私たちの思いを伝える使命を果たしたい」と話している。30日帰国予定。(鈴木 潤)



◎体制整え防災訓練…小谷石豪雨災害から41年

 【知内】1973(昭和48)年に知内町小谷石地区を襲った集中豪雨と土石流災害から41年となった24日、同地区で大がかりな防災訓練が行われた。住民同士が助け合って避難するため、8月に町内会が中心となって「小谷石地区防災対策会議」を立ち上げてから初めての訓練。住民は万一に備えて避難や炊き出しを行った。

 41年前の小谷石豪雨災害では、9月14日に沢の崩落で1人が死亡。24日にも土石流が発生し、死者、行方不明者合わせて7人の犠牲を出した。河口付近の住宅は海に押し流され、248戸のうち、全壊100戸、半壊24戸、床上浸水68戸と甚大な被害をもたらした。

 小谷石町内会は9月24日を独自に「防災の日」と定め、毎年訓練を行ってきた。ただ、住民の高齢化で避難の際に支援を必要とする人が増えたため、地域が一丸となって住民の命を守る体制を整えようと、町と警察、消防、社会福祉協議会が協力して同会議を設立した。

 この日の訓練は大雨と土石流を想定し、午前9時半に防災無線が流れると、住民約50人が避難所に集まった。中には車いすで避難する高齢者もいたが、互いに助け合って避難を終えた。

 ほかに炊き出し訓練やAED(自動対外式除細動器)の使用方法の講習もあり、住民は真剣な表情で取り組んだ。防災対策会議議長の松崎永三町内会長(68)は「高齢化が進み、避難に不安を抱える人が多い。訓練を続けていかなければならない」と気を引き締めた。

 町も同地区の被害を忘れず、防災対策に力を入れる。ちょうどこの日開かれた町議会で町内の避難所19カ所に発電機や投光機などの設備を設置するための予算が可決された。10月末ごろには配備されるという。(松宮一郎)



◎道新幹線開業まで1年半 「観光人材」育成進む…渡島振興局2事業 担い手精力的

 2016年3月の北海道新幹線開業を見据え、渡島総合振興局は、道南各地で活躍する観光の担い手育成を進めている。人材育成を観光振興の柱と位置付け、本年度は2つの事業を展開中だ。参加者は観光商品づくりや地域の魅力発掘などに精力的に取り組んでいる。

 同振興局は6月、観光協会やガイドなど観光事業に携わる約50人を集め、スキルアップを図る「観光商品づくり実践勉強会」を始めた。新幹線開業効果をより広い地域に波及させるため、渡島、桧山のほか、後志南部(黒松内町、蘭越町、寿都町、島牧村)からも参加していることが特徴。

 昨年度は観光コンシェルジュ(案内人)の育成と参加者同士のつながりの強化を目的としたが、本年度はそれを発展させた形。これまでに上ノ国、鹿部町を舞台に模擬ツアーが行われ、それぞれの町の観光ポイントを理解し、観光商品づくりの知識向上に役立てた。

 24日には知内町小谷石地区で模擬ツアーがあり、現地のガイドの案内で矢越海岸を小型船で巡ったほか、まち歩きを体験した。七飯町大沼・駒ヶ岳ふるさとづくりセンターの中村茉由さんは「ほかの町の観光について知るいい機会で、参加者同士の交流も刺激になる」と手応えを話した。

 もう一つは将来、道南で観光に従事することを希望する人を対象にした「観光地域づくり人材育成事業」。全道各地から応募があった20〜40代の5人が、北斗市と八雲町、知内町の観光資源を学ぶ研修を続けている。

 開業まで1年半となり、観光客の受け入れ体制構築は急務だ。振興局商工労働観光課の鈴木一弘課長は「観光客を楽しませる工夫、地域をいかに売るかなどの勉強を続けてもらいたい」と参加者に期待を寄せる。(松宮一郎)


◎洞爺丸事故から60年 「恐怖忘れない」…コックとして乗船・秋保さん

 「船員が持っていた懐中電灯の光と、岸に流された後の住民の介抱がなければ、きっと息絶えていただろう。幸運な偶然が重なった」。1954(昭和29)年の台風15号により青函連絡船「洞爺丸」が函館港外で沈没した事故から26日で60年を迎える。同船にコックとして乗船していた函館市湯浜町の秋保栄さんは(81)は「一つ一つ思い出しても涙が出てくる。あのときの恐怖は忘れない」と振り返る。

 秋保さんは当時、料理人を目指し、洞爺丸の姉妹船「景福丸」「大雪丸」に乗って修行を重ねていた。洞爺丸への乗船が決まったのは前日のことだった。「天皇陛下が乗った船に乗れるという憧れがあり、乗れると知ったときはうれしかった」

 出航から間もなく、船は風に揺られ、大きく右舷に傾斜。機関室などで浸水が起こり、船内はパニック状態に。「ドーン、ドーンとすごい音がして、ソファやテーブルがぶつかり、海水が攻めてきた。真っ暗で何も見えず、息も苦しい。出口となるドアも遠く、もう駄目だと思った」

 そんなとき、船員が持つ懐中電灯の光が見え、わずかな光を頼りに窓下へ這って移動。窓からデッキに出てしがみついて難を逃れるも、海へ放り出された。「肩を打ち、腕も思うように動かなかった。波に流され、気付いたら足が着くくらいの岸にいた」

 北斗市七重浜の岸に打ち上げられた後、付近住民に支えられながらバスで病院へ向かった。「『しっかりしろ』と励まされた。その人たちには本当に感謝の気持ちでいっぱい。介抱がなければ力尽きていた」と語る。

 一命を取り留め、2カ月入院した。入院中も亡くなった人のことや恐怖で眠れない日が続いた。その後、函館などで料理人の道を歩み、市内の高校でも講師を務めた。

 「60年たっても、事故を絶対に風化させてはいけない。生存者として体験を語り、後世に伝えていくことは私の使命だと思う。自然を甘くみてはいけない」と思いを強くする。(平尾美陽子)